日本には倉橋惣三がいてよかった!(佐伯胖)

先日、大学院の授業(「学習学原論」)で、Joseph Tobinらによる、日本、中国、および米国の幼児教育についてのビデオをつかった以下のエスノグラフィについて検討する機会をもった。

Tobin, J. J. et al. 1989 Preschool in Three Cultures: Japan, China, and the United
States
. Yale University Press.

Tobin, J. J. et al. 2009 Preschool in Three Cultures Revisited: China, Japan, and the United States. University of Chicago Press.

本当は、最初にTobinらの研究自体についてコメントするのが礼儀というものだろうが、ここはブログという場に甘えて、彼らの研究はさておくとして、2009年版の資料編であるビデオ映像(DVD)の中の一部(米国の幼児教育現場)を視聴した、まさに独断と偏見による感想を述べさせていただく。

日本、中国、および米国の幼児教育実践を見て、一番大きなショックを受けたのは、米国の幼児教育実践(ハワイのSt. Timothy’s Children Center およびアリゾナのAlhambra Preschool)であった。それは、この両保育が、どちらも、徹底した「教え主義」に貫かれていたことである。ハワイの実践は、「水」をテーマにした「単元」の、厳密に計画されたカリキュラムに従ったものである。水にまつわる単語の学習、水の性質についての学習(“absorb” という単語を覚え、スポンジで色水を吸い取って見せて、これが ”absorb” だと教えたり)、さらには、驚いたことに、ピアジェの「量の保存」実験(細長いビーカーと太いビーカーに同じ量―同じ容器一杯の量―の水を入れて、高さが変わっても量は変わらない)をやってみせたりしている。ハワイの保育者もそうだが、アリゾナの保育者の場合にとくに激しかったのは、子どもたちに矢継ぎ早に、「簡単な質問をなげかけ、答えさせ、”That’s right!” と返す」という、まさに、H. Mehan I-R-E Initiation-Reply-Evaluation)形式の会話の洪水であったことである。子どもたちの「自由遊び」の場面でも、保育者がつきっきりで「寄り添う」というより「監視する」様子で、「そこに登ってはいけません。」、「こっちをちゃんとつかんでやりなさい。」などなど、機関銃のように注意と指示の連発である。全般的に、保育者も子どもたちも、「無表情」であり、笑っている、怒っている、泣いているという、日本の保育現場ではまさに「そればっかり」というべき場面がほとんど見られない。けんかは「おこりそうになる」前に保育者が介入して、ちゃんとことばで自分の考えを「述べる」ようにしむける―全体的に、ことばをきちんと話す言語指導がかなり重視されている―というありさまであった。

ここには、幼児教育についての確たる思想はほとんどみられず、断片的な「認知発達論」(俗流ピアジェ発達心理学)や小学校教育の前倒し(まさに、“ヘッド・スタート”)、それと、親の要求(「ちゃんと“教えて”ほしい。」「怪我を絶対させるな。怪我をさせたら訴えるぞ!」)にただひたすら応じることばかりに目が行っているというのが、感想であった。

ああ、日本には倉橋惣三がいてよかった!幼児の遊びがいかに大切かについて、日本の幼児教育の世界ではきちんとした思想と保育理論としてかなり行き渡っていると思われる。ただ、これも最近の動向では、むしろ「アメリカ型」への移行へのプレッシャーが高まってきていることも確かなのだが。

しかし、先日、日本保育学会第63回大会での記念講演で、宮台真司は、むしろ、ちゃんと遊べない若者、「勉強田吾作」が増えてきており、それが日本をダメにするという話があって、「遊び」の重要性は幼児教育の話ではなく、教育の根幹にかかわることだということが熱っぽく語られていた。今、あらためて、「倉橋に帰れ!」といいたい。

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