前回、Chaiklin論文で、ヴィゴツキーの最近接発達領域(ZPD)が、あくまで「発達」のモデルであって、「学習を促す」話ではないと言うこと、さらに、ヴィゴツキーが「発達」と捉えていることは、「アレができる、コレができる」というスキルや、「アレを知っている、コレを知っている」という知識ではなく、それらが相互に関係し合う「統一体」としての「子ども全体(whole child)」の変容を指していることが指摘されていた。この「子ども全体」というとらえ方は、レイヴとウェンガーの「正統的周辺参加」(Legitimate Peripheral Participation: LPP)において、学習とは「実践共同体への参加を通して、学習者のアイデンティティが変容すること」とし、その場合、変容するのは学習者の「全人格(whole person)」であるとしていることに相通じる考え方であることを知って、「目からウロコ」だったことを述べた。
ちなみに、発達を子どもが「人間になっていくこと」として全人格的に捉えるべきであり、「コレができる」、「アレができる」ということに焦点化すべきではないということは、『幼児の教育』(日本幼稚園協会発行)の2009年4月号(第108巻第4号)の巻頭言“幼児の「発達」をどう見るか”(pp. 4-7)で論じておいた。
さて、Chaiklinによると、ヴィゴツキーのZPDには、「客観的(objective)ZPD」と名付けるべき概念と、「主観的(subjective)ZPD」と名付けるべき概念があるという。「客観的ZPD」というのは、特定の個人としての子どもには焦点化せず、特定の年齢層の子どもの一般的な「成熟度」とともに、その年齢層の子どもについて社会的・歴史的に形作られた子ども像が、次の年齢層の子どもについての成熟度にあわせた社会歴史的に期待され想定される子ども像への「橋渡し」的状態にあるとして「発達」を見るということを指している。
我が国の最近の幼児教育界の実情に合わせて言うならば、幼稚園の年長組の子どもたちは、否応なく、「小学校に行く」べく、社会的・歴史的に構成された子ども像からの制約を受けており、それが、その年齢の子どもの知的能力全般の「成熟度」と相まって、さまざまな矛盾やプレッシャーのまっただ中にいる、そういう状況が「客観的ZPD」ということになる。ここで、文部科学省が「幼小連携」を叫び、幼稚園がもっと「小学校へ行く」準備となる保育をすべきだという話についてあえて言うならば、別に文部科学省が言わなくとも、今日の社会全体、教育制度のありよう、幼児の教育をめぐる社会歴史的流れの中で、「幼小連携」志向のモーメントが、幼稚園年長組の年齢層の子どもたちに「客観的ZPD」を構成しており、子どもの発達が、「よい」とか「わるい」とかではなく、否応なく、そういう中に位置づけられているという「客観的現実」を「客観的ZPD」と言うのである。年齢を下げて言うならば、「幼稚園に行く」前の年齢層の幼児に対しても、いわゆる「お受験」をする・しないにかかわらず、何らかの意味で、次の段階(幼稚園児)への「橋渡し」的な社会歴史的制約を受けているばかりでなく、子どもの精神発達の成熟度が、そういう制約を抵抗なく受容する(受け入れる)段階にあるという「客観的ZPD」からまぬがれることはできない。
ところで、前回同様、Chaiklinが解き明かすZPDについての議論が、おそらくChaiklin本人は気付いていないだろう(たぶん?)と思われるが、小生にはレイヴとウェンガーのLPP論と関連づいていることとして考えないわけにはいかない。
それではChaiklinのいう「客観的ZPD」に対応するものはLPP論ではどういうことになるだろうか。
それはLPP論でいう「アイデンティティ」に関連している。LPP論では、通常「アイデンティティ」を共同体の“成員性”として捉える。しかし、「共同体の成員性」というと、それはその共同体の中で社会・歴史的に想定され、期待される「あるべき姿」を指しているようにも受け止められる。人類学や社会学の観点を強調すれば、「アイデンティティ」というのはその社会の「ハビトス」の獲得であり、「そのコミュニティの成員」という資格条件を満足し、期待される行動様式を「身に付けること」と見なされる。しかし、レイヴとウェンガーは、そのような「固定化した」アイデンティティ観を「内化」論(外側の制約が学習者の中に「取り込まれる」こととする論)として退け、世界の意味についての絶えざる交渉、再交渉の中で「変化する」アイデンティティ観を提唱している。しかし、「客観的ZPD」論は、LPP論でいえば、「社会歴史的に期待され、想定され、促され、否応なく“身に付けさせられる”共同体の“成員性”へのプレッシャー、相克、矛盾、もがき」としての「アイデンティティ状況」なるものの存在をうきぼりにする。
ここまでくると、その解釈が多様でしかも難解な、かのHodgesの「反・アイデンティティとしての参加」の意味が、なんとなくわかってくるではないか。
Hodges, D. C. 1998 Participation as dis-identification with/in a community of practice. Mind, Culture, and Activity, 5(4), 272-290.
Hodges は幼児教育の教員になるために受けた実習で、自分の居場所を失い、「その世界」に入れない自分を発見するのだが、「その世界に反発する」という自らの「反・アイデンティティ」こそが、LPPでいう「参加」になっていることを論じている。これは、「幼児教育コミュニティ」における成員性の「客観的ZPD」的状況をしっかり見つめ、その内実をきちんと把握することで、自らの、自分自身のアイデンティティのありようと、みずから切り開く「参加」の軌道を示そうとした論文だと解釈できるのではないか。
さて、こうなると、ZPD論でも、「客観的ZPD」の中で生きようとする一人の「個人」のZPDはどうなるのか気にならないではいられない。そこでChaiklinのZPD論に戻って、では一人一人の子ども自身の、個別の「発達」をとらえる「主観的(subjective)ZPD」とはどういうものかを考えることにしよう。それについては、次回(3枚目の「ウロコ」落とし)で論じることにする。