最近読んだ「目からウロコ」論文―その3(佐伯胖)

前回、ヴィゴツキーの最近接発達領域(ZPD)について、Chaiklinが「客観的ZPD」と「主観的ZPD」の2種類に分けて考えるべきだしていることを説明した。その場合、「客観的ZPD」というのは、すべての年齢層の子どもたちが直面している、社会歴史的に構成され準備されている“次の段階”へ向けての橋渡し的状況にあり、そこでは、その年齢層の子どもの精神機能の発達が“次の段階”への備えとなるべく、社会歴史的に(否応なく)「方向付けられているという状況を指しているとした。この問題を、私は、LPP論における学習者の「アイデンティティ」が、そのコミュニティの社会歴史的に形作られてきている「成員性(membership)」への同一化へむけてのプレッシャーにさらされているという「客観的状況」の問題に対応していると述べた。

それでは、ZPDについて、個人の発達に焦点化した「主観的ZPD」とはどういうものだろうか。

「主観的ZPD」というのは、特定の個人としての子どもが、その子どもを取り巻く大人や教師、もしくは「次の段階の子ども」と関わる中で、自分自身の発達を“方向付けている”(そういう交渉過程の中で「自分一人ではできない-あるいは、やらない-こと」をするようになる)状況のことである。ちなみに、ここでも「ZPD」というのは子どもの「発達」を捉える視点であって、「そういう状況」が学習を促進させるのだとか、「そういう状況」こそが理想的な「教授(instruction)」だというわけではない点は注意しておくべきであろう。

Chaiklinによると、ヴィゴツキーの「主観的ZPD」を構成しているのは、「模倣(imitation)」だという。言い換えると、「主観的ZPD」で子どもが求めているのは自ら「模倣したい(模倣したくなる)」と同時に「模倣できる」対象なのである。ただし、ヴィゴツキーはこの場合の「模倣」は表面的な物まね(ミミッキング)ではないとのことである。あくまで、その子どもにとって背後の「意味」あるいは「理由(わけ)」がわかっての模倣だというのである。「どうしてそうやるのか、そうやるとどういう意味になるのか」がおよそ「わかる」範囲での模倣だというのである。

私としては、こんなところで突然「模倣」問題が飛び出してきたことには驚いた。子どもの発達を考えるとき、子どもがどのように他者を模倣するかについての発達が重要な鍵になるということについて、最近論文を書いたところである。(佐伯胖 2008 展望:模倣の発達とその意味 『保育学研究』第46巻第2号、347-357.

また、トマセロ(M. Tomasello)は「模倣」こそが、人間の「文化」生成の鍵であること、「模倣」にもとづく学習こそが「文化を創る」学習であるとしている。

Tomasello, M., Kruger, A., and Ratner, H. 1993 Cultural learning. Behavioral and Brain Sciences, 16, 495-552.

Tomasello, M., Carpenter, M., Call, J., Behne, T., and Moll, H. 2005 Understanding and sharing intentions: The origins of cultural cognition. Behavioral and Brain Sciences, 28, 675-753.

佐伯やトマセロが焦点をあてているのは、ヴィゴツキー同様、表面的な物まねのことではなく、「意味がわかっての模倣」のことである。

考えてみると、ヴィゴツキーが「模倣」に焦点を当てるのは、発達を「子ども全体(whole child)」の問題だとすることから当然の帰着でもある。なぜなら、「模倣」というのは、個々の動作を「写し取る」というようなものではなく、相手に「なってみる」ことで初めてできることなのである。つまり、「多様な精神機能の統一体」としての「全人格(whole person)」に「なってみる」ことでしかできない。「五木ひろし」のマネをするタレントのコロッケは、五木ひろしの声だけでなく、表情、仕草、語り口など、ありとあらゆる様態のすべてを「まるごと」(全人格的に)真似ているのである。精神機能の発達はすべて「子ども全体(whole child)」のレベルで生起するとしたヴィゴツキーが、発達の生み出す原動力は「模倣」であるとしたことは、当然と言えば当然であろう。

しかし、模倣と発達との関係は、ヴィゴツキーが予想していた以上に複雑かつ重要な問題をかかえている。Chaiklinによれば、ヴィゴツキーはくりかえし、ZPDでいう「模倣」は「意味を考えない表面的な物まね(mindless copying of actions)」ではないと断っているという。たしかに、ヒトの模倣の発達を見ると、生まれて直後の新生児模倣は「意味を考えない表面的な物まね(mindless copying of actions)」だが、やがて、行為者の意図や行為で達成されることの意味を理解しての模倣になっていくのだが、学齢期が近づき、言語使用がはじまると、「意味がまったくわからないこと」をそっくり取り込む模倣が入り込み、それがどんどん「発達」していくのである。ヴィゴツキーは、「学校教育」についてはかなり楽観的かつ肯定的に見ているようであるが、むしろ、学校では、「意味がまったくわからいこと」でも「先生が教示している」というだけで、まるごと「意味を考えない表面的な物まね(mindless copying of actions)」で対応することが要求され、「考えない子ども」がどんどん「育って」しまう。

先の「客観的ZPD」のまっただなかで、「主観的ZPD」が「模倣」を通して一人一人の独自の発達を生み出していくというのはどういうプロセスなのだろうか。

幼少のときからベートーベンやショパンのピアノ曲を「丸暗記」して弾きまくり、20歳にしてヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールで優勝した辻井伸行氏にとっての「模倣」とはどういうものだったのだろうか。おそらく、そのときそのとき、彼自身にとってのできるかぎりで「ベートーベンになること」、「ショパンになること」に集中していたにちがいない。おそらくいつも、「彼流に」という但し書きが、本人の意識とは無関係につきまとっていたに違いないが。(おわり)

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