フェティシズムとプロジェクション

フェチと聞くとヤバいみたいに考える人もいると思うが、文化人類学、文化社会学では大事な研究テーマとなっている。最近読んでいる田中雅一さんのフェチシズム研究全3巻は素晴らしい。

・フェティシズム論の系譜と展望-
・越境するモノ
・侵犯する身体

タイトルも秀逸だが、すごい世界を見せてくれている。個人的には、田中さんが巻頭に書いているものが一番グッとくる。ぜひお話を聞いてみたいし、お話もしたい。

なんで気にいるかといえば3つほど理由がある。1つ目は、とても個人的な話だが、私が若い頃に愛読した岸田秀、吉本隆明につながる世界があるからだ。彼らは、私たちは無意識のうちに従っている規範、価値、行動図式が、全て虚構、幻想に基づいていることを指摘した。当時、社会、権力そうしたものに強い違和感を覚えていた私には(というか今でも完全にそうだ)、彼らの著書は福音のように思えた。それ自体としては意味のない、実体のないものに、ものすごい価値があると思い込み、熱中を超えて、自分の生命まで差し出す、これが(共同)幻想だ。これはその当時やはり好きだったサルトルの考え方にも、遠く通じるような気がする。ここらへんは自分の思考の原点ともいうべきもので、ここに触れるものにはなんでもグッときてしまう。

今の私にとってなぜこの本が素敵かといえば、それはプロジェクションの有様を曝露するからだろう。生体にとっての意味、価値を推論し、それを世界の中に投射して見る。そしてそれを求める(あるいは拒否する)、そういう姿が露わになるだ。この本では、フェチシズムは、モノ、貨幣、宗教の3つが研究領域となるとされているが、それには止まらない。こうした働きは、通常の知覚(目の前のものがコップだとわかる)から、錯覚に繋がるし、幻想、妄想、ブランド、信仰まで一貫していると思う。こうした問題を論じていたのは、フロイト、ポランニー、ハンフリー、大森荘蔵、そして田中さんなどがいる。しかし、誤解(恥?)を恐れずにいえば、本当に科学の側から突き詰めてきたのは、私が最初だと思う。こうした心の働きをやらない限り、世界と人は調和しない、それがプロジェクションサイエンスなのだ。

最後の理由は、それが現実を崩壊させる契機を含んでいるという点だ。本来価値のないものへの執着は最初はメトニミー、あるいはパース的な意味でのインデキシカルなものだっただろう。しかししだいにそうしたメトニミー、インデックスを超えて、それそのものが独立した意味を帯びるようになる。つまりパースの言うところのシンボルとなるのだ。これを追うことにより、パースの記号論の進化論、あるいは発達心理学も可能になるかもしれない。もうすでに記号として確立したものを子供がどう獲得するかではなく、誰かが発したアイコン的サイン、インデキシカルなサインがどうやって、記号へと変化するの生の生成と変化の過程が見られるかもしれない。これによって、今私たちが常識と思っていること=つまりシンボルとして確立していること、が全て覆される可能性がある。これは楽しい想像だ。ワクワクする世界のように思える。無論自分の幻想も含めて粉々にされるのだろうが、もう一度何かをまた作り上げられるのかもしれない。要するに革命だね。

余談だが、こうした考え方からすれば、国旗、国歌に激しくこだわる人と、女性の下着、アイドルに強くこだわる人たちは、同じ心の働きが別の対象に向かっただけだとなる。どれもその人たちには大切だと考える必要があるし、向かわせる動機は全然違うだろうが、煎じ詰めれば仕組みは同じということだ。つまり、プロジェクションという働きの結果だ。ちなみに、どれにもさほど興味はないが、個人的には前者よりも後者が好ましい。理由は前者の心のねじれ方が痛ましいからだ。また前者は人を抑圧するが、後者はしないというもあるだろう。ただしこれは好みの問題だ。

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