生田の熟達論とD. Pinkのモチベーション論,そして感染

昨日(7月18日)の大学院ゼミでは面白い発表が続き,触発されていろいろと考えたので,それを備忘録としてまとめておきます.

生田久美子さんの「わざから知る」は30年ほど前に出た本であるが,その輝きは失せない.それどころか,今の教育改革ブームにとってとても大事な視点を与えるという意味で,その輝きは増していると思う.一方,ダニエル・ピンクは「モチベーション3.0(原題:Drive)」という魅力的な本を書いている.この中で彼は,人が動機づくためにはアメとムチは逆効果であること,そして自律性(autonomy),目的(purpose),習得・熟練(mastery)の3つが動機づけにとって重要であることを指摘している.勤務時間を自由にする,勤務時間内に業務とは異なることを自分で見つけてそれに取り組む会社の例などがたくさん出ており,とても刺激的だ.

さて,生田さんが取り上げた日本舞踊のような伝統芸能では,学校とは大きく異なる教育システムが存在する.学校では最終的に獲得させたい技能,知識を要素に分解して,これら各々をその順序性,要素性の観点から並べ,1つずつ順に教えていく.四則演算の技能を獲得させたいという場合には,まず数字を教える,次に数の大小を教える,そして足し算に進む.足し算も一桁同士の足し算で10を超えないものから始まり,次に10を超えるものがくる.そして二桁足す一桁の足し算という形で進んで行く.

一方,伝統芸能の場面でこうしたことは起きない.師匠の踊りを見て,それを真似しながら,舞全体を踊ることが求められる.そしてそれが終わると,次の別の踊りへと進んでいく.つまり,舞を手の上げ方,足の運び方,立ち上がり方,首のかしげ方などに分解して,1つずつ練習して身につけるということは求められないのである.同じようなことは,状況論の古典とも言える,Michael Coleたちのリベリアの仕立て職人の熟達過程の研究でも報告されている.

生田さんはこれを「非段階性」と呼んでいる.これが意味することは,学習者は自分が獲得すべき事柄の全体が最初から見えている,ということだ.別の言い方をすれば,何に向かっていくのか,その到達点は何かが,師匠の美しい舞という姿で,始めから学習者に了解されているのだ.学校での学習とは全く異なる学習の姿がここに現れている.

これはピンクの言葉で言えば,目的と関係していると思う.こうなれたらいいな,こうなりたいという姿の全体が,学習者の前に存在しているというわけだ.

生田さんの伝統芸能の伝承・熟達研究はもう1つの大事な点を挙げている.師匠は弟子の踊りを見て,どこがどうおかしい,どのように直すべきかを指摘することはないという.ただ単に「あかん」とか,「もう一度」というだけだという.ここでもまた学校での学習の姿とは全く異なる学習の姿がある.もし学校でこのようなことが行われれば,その教師は丁寧な指導のできない,不親切な人間というそしりを免れないと思う.

生田さんはこれを「評価の不透明性」と呼んでいる.不透明な評価しか得られない環境の中で,学習者は何をしなければならないだろうか.それは自分を振り返り,「自ら」修正のポイントを見つけ,それに向かって努力するということではないだろうか.ここにはPinkの言う,自律性が関係している.つまり人に言われてそれに従うのではなく,自分の学習過程を自分がコントロールしているという感覚があるように思える.

生田さんはこのプロセスを「学習者自らが習得のプロセスで目標を生成的に拡大し,豊かにしていき,自らが次々と生成していく目標に応じて段階を設定している」と述べている.この姿はPinkがモチベーションの3つの要素と述べた,自律性,目的,習熟という姿と見事にマッチしているように思う.まるでPinkが生田さんの本を読んで書いたような気すらする.

これに加えて,モチベーションという観点からすると,師匠の姿というのも大事かなと思う.生田さんは人類学者のマルセル・モースの威光模倣という概念を指摘している.威光とは「模倣者に対して,秩序立ち,権威のある,証明された行為をなす者」が放つものだ.模倣者は,この所作,動作を観察することを通して,彼・彼女に威光を感じ,それが動機となって学習を進めるという.師匠というのは,その美しい芸を通して,まさに威光を放ち,弟子はこの威光が動機となり,稽古に励むのだという.

同様に,宮台真司さんは「14歳からの社会学」(2008)の中で学ぶ動機には3つあると述べている.競争動機とは,人に勝ちたい,人より優れていたいので勉強する,というものだ.このタイプには,調教型,アメとムチ,強化が効くかもしれない.もう1つは,理解動機というもので,その事柄を分かりたい,より知りたいので勉強するというタイプだ.これは内発的動機づけに該当するので,賞罰は関係ない.ただ分かってしまった先はどうなるのかは不明である.そして最後に彼が挙げるのが,感染動機である.それは,師のようになりたいので,勉強をするというものだ.なぜ感染というかは,「師匠と同じ箘を浴びて,師匠と同じ症状になりたい」ということからきている.

これは自分の大学院時代を考えると,まさにその通りという感じがする.佐伯胖という人物に憧れ,ああいう風になりたい,ああしたことを考えるようになりたい,あのような筋道を立てる人間になりたいと思い,自分は勉強と研究を続けた.むろんその過程で,人より優れてきたり,ものがわかってきたりもするけど,それで終わりには全然ならない.これらは,目的地に向かう電車の中で,うまい駅弁を食べるようなものだと思う.駅弁がうまかったので旅をやめる人間がいないのと同様,何かがわかった,人に勝ったと言うだけで学習が終わったりはしない.次から次と,佐伯さんが放つ威光の中で,まさに目標が生成的に拡大していった.

そんなこんなで,モチベーション,習熟について考えた次第です.しり切れとんぼだな.

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