前の投稿で、人間にとっての世界はmixed realityだと述べた。つまり物理世界には存在しない、推論、処理の産物を世界の中に投射し、それを見ている、感じているのが人間だと述べた。もっとも、動物だってmixed realityの中で暮らしているのだと思う。「食える」、「食えない」、「やられる」、「やれる」などという意味を発生させ、その世界を知覚し、そこで行動しているのだと思う。ユクスキュルの環世界(umwelt)というのは、そういうことを表した概念だと思う。ただ人間の意味づけは、動物の意味づけに比べて、桁外れに多いはずだ。これが高橋君@中京の言っている「ホモ・クオリタス」ということだと思う。
投射はクオリアと強く関係している。ただクオリアというと、じゃあもう無理ですね、と言われる危険性が高いので、あえて言っていなかっただけだ(鋭い人、たとえば植田さん@東大、あたりはだいぶ前に見抜いている)。クオリアというのは、質感とか、訳されたりするが、主観的な感覚、経験のことだ。Phenomenal Experience(なんて訳すのでしたっけ?)というのと、同じことだ。赤いりんごを見て、「赤いな」と感じること、重いバッグを持ち上げて「ああ、重い」と感じること、日本酒を飲んで「ああいい味」と思うことである。
なぜそれが問題になるかといえば、そこに客観世界、物理学的に記述された世界があると考えるからだ(ないということはほぼできないと思う)。赤いリンゴは特定の波長の光を反射し、網膜上の特定の細胞に特異的な発火のパターンをもたらす(そんな簡単ではないのだが)、重いバッグは特定の筋の緊張を生み出す、さまざまな有機化合物からなる酒は味蕾に化学的な刺激を与える。さてそういうレベルで記述された世界から、どうやって「赤い」、「重い」、「うまい」という主観的経験がうみだされるのだろうか。これがクオリア問題というものだ。この問題はどうやって解決できるのか。茂木さんは数十年だか、数百年だかかかると言っていたように記憶している。
確かにとても難しい問題だが、投射という概念を持ち出すことで、ある程度整理できるのではないだろうか、というのがこの投稿だ。私たちは、世界が与える物理的な情報を処理し、内部で様々な加工を行いつつ、(物理的な)世界自体とは異なる世界を内的に作り出す(表象とか、内部モデルなどと言う)。これは多くの認知科学者が同意してくれると思う(同意しない人は私の「教養としての認知科学」を読んでほしい)。
さてここからがポイントだ。我々人間、また動物達は、そうした内的なモデルを作り出すだけでなく、それを世界に投射する。つまり意味づけされた情報を、世界にまた位置づける。そしてその投射によって作り出された世界をまた知覚する。これが前の投稿で述べたmixed realityというものだ。
すると何が起こるか。赤いリンゴの知覚は内部に「赤い」という主観的な情報を生み出す。そしてその主観情報は世界に投射されることで、実際に私たちは「(主観的に)赤い」リンゴを目の前に見ることになる。重いバッグを持った時にその物理情報から生み出される内部モデルは、そのバッグへと投射される。その結果、私たちは「重い」という主観情報に彩られたバッグを持つことになる。
つまり、物理情報から作られた主観情報が世界に投射されることにより、私たちは主観的な意味づけを持つ世界をダイレクトに知覚することになる。するとクオリアとは、
情報の受容ー>内部モデルの構成ー>投射ー>投射済みの世界の知覚
というサイクルの中で生み出されるものと捉えられるのではないだろうか。
これが今日、言いたいことだ。ツッコミどころは色々とあるのだが、所詮メモなので、とにかく残しておこうと思う。
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