現象学的還元についての個人的な思い出と現在の見解

現象学的還元というのはフッサールが使った、とても、とても有名な言葉であり、その後の多くの研究に多大な影響を与えたものです。ものすごく重要な概念だし、多くの哲学者がフッサールの著書をきっちりと原著で読んだ上で、さらに関連の研究者の著作も踏まえて解説しています。

これから語るのは、そうしたことをしてきた人間ではないということをまず初めに述べておかないといけないと思います。そうではなく、認知科学をやってきて、かつプロジェクションという考え方の虜になった人間の解釈ということをまず明記しておきたいと思います。

さて現象学的学的還元という言葉を最初に聞いたのは、学部時代だったかもしれないですが、本格的に聞いたのは大学院に入ってからでした。というのも、隣の研究室というか、同じ学科の教授に吉田章宏先生という現象学を専門とする先生がいらして、そこの院生たちもたくさんいたからです。

それは今から40年ほど前になります。当時、私は勃興中の認知科学の研究室に所属していましいた。全ての知性はプログラム、コード化できると信じている、そういう世代の認知科学だったのです。現象学というのも、ある意味心理学なので、そこの対立は激しいものでした。現象学の人たちは、認知科学は根源からして間違えている、人の知性、行動をプログラムとして書き下すことは絶対にできないと主張していました。この当時の分かりやすいものとしては、ドレイファスの人工知能批判などがあると思います。

大学院の中では、私の所属した佐伯先生の認知科学の研究室と、吉田先生の現象学の研究室は学科の飲み会などをやった時には、随分と激しい議論をした。あまりに激しくて、1年後輩の現象学の奴は、飲み屋で僕の首をしめたことすらあります(笑、本気ではないですよ、そのくらい白熱したということです)。

ただ実は私は実は大学院入学の時には、先ほど述べた吉田先生の研究室に入ろうと思っていました。それは勉強をしていないせいで、昔の、つまり現象学以前の吉田先生の論文を読んだだけだったからです。しかし現象学に専心されていた吉田先生から、当時サバティカル中だったアメリカから、「君は佐伯研究室に行くべきである」という、とても長い手紙をいただき、吉田先生以上に知らない佐伯研究室に行くこととなりました。

さてそれでも吉田先生のやっていることには関心がありましたので、大学院の講義を受講することにしました。相当な数がいて、かつ参加者もバラエティに富んでいたのを見て、吉田先生は、参加者をいくつかのグループに分けて、異なる文献を読むという方針を立てました。

それで私と4, 5人のグループは、なんとフッサールの最後の著作、というか実際にまとめたのはランドグレーベの「経験と判断」という分厚い本でした。これを分担してレジュメを作って議論をするという授業です。

私は心理学、認知科学が専門ですし、それを目指していましたが、この分野の多く(特に前者)の人のように哲学に無関心ではないどころか、とても関心がありましたので、「よしやってみよう」と意気込んで本屋に行ってそれを購入し、読み始めました。

読み始めて唖然としました。あまりにすごいことが書いていあってということではなく、こんなに意味がわからない本を今まで見たことない、という意味です。1ページ読むのに30分以上かかるみたいなのがザラで、かつほとんど理解できないという代物でした。正直いってとてもとても憂鬱になりました。読むだけでこんなに時間がかかるのに、これのレジュメ?、どうやって書くのだろうということです。

同じような体験は、ハイデガーの「存在と時間」を読んだ時にも持ちました。あまりの難解さに歯ぎしりをするとともに、己の知能の低さを心底実感しました。もっとも「存在と時間」は身内の読書会だったので、それほどプレッシャーではなかったのですけど、「経験と判断」は先生がいますので、そのプレッシャーは半端ではなかったです。

さて私は最後の方の章を担当したのですけど、レジュメを書く段階になっても、フッサールが何を語ろうとしているのか、そのポイントは何かをまるでつかめていませんでした(ひどいですよね)。ただなんとか、人並み(?)のものは書けていたようで、特に怒られることもなく(呆れたせいかもしれない)、ゼミ発表は終わりました。

それで、その後先輩とかのレジュメなり、自分の拙いレジュメを読み直していたりしましたが、何についての本なのかがわかったような気がしてきました。中身がきちんとわかったという意味ではありません。そうではなく、単に何について書かれた本なのかという意味です(泣)。

さてその私の理解、つまりその本の主題とは何かといえば、「この本は目の前の対象(例えばコップ)を(コップと)認識する『前』までの過程を書いたものだ」ということです。私たちは目の前のものは全て認識しているわけですが、そういう認識が成立するまでの心の働きを描いたものなのではないかというのが、私のその時に到達した理解でした。ただ、それは5ページとか、20ページとかではありません。大判の本で300ページ以上もあるものです。300ページかけて、これだけのこと(しか?)を言うのかというのがその時の素朴な印象でした。

そうした理解(?)を、例の私の首を締めた奴(まあ今北大の教授ですけど、笑)たちとまた飲んだ時に話したら、「よくわかりましたね、そうなんですよ」とか言われました。そして続けて「それがわかればもう十分なのです」とも言われました。私レベルの人間にはということなのでしょうけど、笑。ちなみに、誤解のないように言っておきますが、首締め教授はぼくは好きな男でしたし、全然悪意ありませんからね。

すごいと思いませんか。無論私のことではなく、フッサールです。何かを何かと認識するというのは、特殊なケースを除けばあまりに自然に行われ、ものの0.5秒もかかりません。そのたった短い時間内に起きていること、起きねばならないことを、心理学の実験、脳の状態(そんなものはそもそも当時は存在しなかった)の参照なしに300ページ以上かけて論じるのです。

さて2つほど前の段落で「この本は目の前の対象(例えばコップ)を(コップと)認識する前までの過程を書いたものだ」と気づいたと言いました。ここでのポイントは「認識する「前」」というところです。コップの認識は、この本の射程外にあるのです。

こういう話を聞くと、馬鹿げている、そんなの瞬時にわかる話で、それ以前などない、という反論もあるかもしれません。見た途端コップとわかる、という話です。しかし提示する時間をどんどん短くしていけば、(実験をしたわけではないのですが)どこかで分からなくなるはずです。「何かは見えたような気がするが、なんだか分からない」、そういう状態です。その時も非常に短いですが何かの心の働きがあるはずです。それを追いかけたのが「経験と判断」ではないか、というのが私の考えです。

なぜフッサールはそんなことにこだわったのか、それが現象学的還元ということと密接に結びついているのだというのが私の考えです。つまりあるものが「コップ」と見なされてしまえば、それは「意味が付与された」状態になってしまいます。現象学的還元とは、そういう意味づけを排除し、意味というもの以前に働く心の動きを追うためのものだということです。

それゆえ現象学者は対象の実在を素朴に認める態度を一時中止すると同時に,反省のまなざしを自分自身の意識作用そのものへ向けるための現象学的還元(または超越論的還元)を行わねばならない

出典|株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版

これによってフッサールは意識、志向性というものの純粋な形に出会えると考えたのだと思います。ふつうの状態では意識というのは必ず何かに向かっています。・・・「についての」意識たらざるを得ないわけです。その・・・を省いてしまえば、純粋な形の意識を取り出せる、あるいは意識が対象に向かう様=志向性というものの純粋な形式を取り出せると考えたのだと思います。もうちょっと付け加えると、意識の対象を除外することで、意識の作用自体=ノエシスを明らかにするということです。

こういう風に書くと、それはフランツ・ブレンターノの作用心理学というものを思い浮かべる人もいるのではないでしょうか。作用と対象の分離を行うことで、意識の働きの純粋な形式を探求できると考えたのは、ブレンターノでしたし、そもそもBrentanoはフッサールの先生なのです。ただブレンターノの話は、いわゆる今の心理学、特に知覚系の心理学とほぼ一緒であまりピンとはきません。

さて、ここまで書くと、ある程度プロジェクションを認めてくださっている人は、ああプロジェクションっていうのは作用、つまりノエシスをやろうとしているのだと思うでしょう。というのも、プロジェクションというのは明らかに意識の持つ「作用」の1つであり、「内容」ではないからです。

ただ「作用」というのが、脳内に止まるわけではないというのが、プロジェクション科学の最も大事な点です。知覚が作用し、それが脳内にいろいろな変化をもたらすことはもちろんです。それを否定する気はありません。それを世界に映し出す作用を考えるということがプロジェクションの最も大事な点なのです。

つまり世界がそう見えるということです。単にそう感じているとか、考えているのではないのです。一口飲んでうまかった酒が目の前にあるとき、その酒を美味いと感じている自分がいるだけでなく、美味い酒が目の前に「ある」のです。私は幽霊は会いたいとは思いますが、信じません。でも幽霊に会った人たちには、幽霊は「いた」のです。幽霊のように思ったのではありません。彼の知覚世界には幽霊が「いた」のです。

新聞記事なので正確かどうかはわかりませんが、ダークマターは宇宙の1/3程度の質量、ダークエネルギーは2/3ほどの質量を持っているのだそうです(ちなみに地球上のダークマターの総量は0.5kgしかない・・・)。こういう世界は私たちには見えませんが、彼らには(観測はできないにせよ)その世界は存在していると思います。宇宙物理学者たちは現時点で知覚はできないでしょうが、ダークマター、ダークエネルギーが存在する世界にいるのです。

飛躍かもしれませんが、私の好きな言葉に「花の美しさなどはない。美しい花があるだけだ」という小林秀雄の言葉があります。この言葉は、前の段落での私の感じとすごく近いです。

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