岩波書店から出ている「科学」という月刊誌で「なぜ科学を学ぶのか」という緊急特集が組まれました(科学10月号)。これは、2002年度に実施される新指導要領、およびそれに対する反論を検討するという特集です。 新指導要領は、数学、科学教育を壊滅させる、という批判が多くの科学者からなされています(たとえば、ここ を見てください)。たとえば、三桁の掛け算が小学校から消えてなくなり、円周率は「およそ3」にされる、遺伝の授業がなくなる等々。また、とある教科書会社の人から聞いたのですが、高校の物理は力学からではなく、「波」からになるそうです(なんでも、文部省のアンケートでは「力学」は評判が悪いので、「親しみやすい!!」波から始めるそうです…………)。
私は、ここに掲載された論文で、発達心理学や思考心理学の成果、というか常識をまず披露しました。たとえば、
* 子供は思っているほど愚かじゃないよ、
* 大人は思っているほど賢くないよ、
* 人は理解を自ら「構成(construct)」し、発達するのですよ、
というものです。
論文の最後で、私は双方への批判を行いました。批判の論点は、学習項目を減らしても、また維持しても、教科書がひどすぎて(理解を構成するという視点がまったくない)、まともにここから学べる人はいない、というものです。学問の論理をそのまま学校に押し付けても、学習成果は期待できないし、抽象的に「ゆとり」をつくっても(つまり時間減らすだけ)、だから何が起こると言うわけでもなかろうという大変に当たり前のことです。
結構上手に書けたので、結論の一部を下に引用します。
さてこうした観点から現在の教育を見ると暗澹たる思いに駆られる。私は最近高校の物理の教科書をかなり丹念に見る機会があったが、これらは検定に通ることを主目的として書かれているのであり、およそ学習者による理解の主体的構成を目指したものではないことを確信するに至った。たとえば、「運動と力」の章では、公式、法則の類いが60ページくらいの中に約30個も出てくる。大方はある基本的な式から導き出せるものであるにもかかわらず省けないのは、検定において不利になるからだという\footnote{検定では、取り上げる公式、総ページ数、単元の順序はおろか、カラー写真の枚数などまで細かく決まっているらしい}。
また、取り上げられている実験の多くは法則の確認、用いられる例題は公式との対応が一目でわかる、きわめて単純なものだけである。多くの生徒は次から次と出てくる公式を覚え、それを単に当てはめて例題を解くだけに終始することは想像に難くない。ここには同化も、調節も、説明も全くない。科学離れは当然の帰結だろう。
一方、小学生の教科書を見るとあまりの“ゆとり”に唖然とさせられる。たとえば生活科の教科書、これはチラシを綴じたようなものである。わずかばかりの文字が散在するページには、笑顔の子どもを写し出すカラー写真が次から次へと、目がくらむような極彩色のインクを用いた背景の上で踊る。そして授業では何かを“教え”たりしてはならず、何でも“自分で”観察してみよう、調べてみよう、作ってみようということが強調されるらしい。
ここには科学的な認識に対する基本的な誤解がある。規則性や矛盾の発見、説明仮説の生成、検証などの同化・調節活動の複雑な連鎖の上に科学は成り立っている。また、科学的な探求には独自のノウハウがあり、やみくもな観察や調査が意味のある研究に結びつくことはまずない。矛盾点への着眼のしかた、問いの立て方、確かめ方、議論のしかた、いずれをとっても自然に身に付くものではないことは、文系、理系を問わず、少しでも研究活動を行ったことのある人間にとっては自明のはずである。
2002年度から実施される新教育課程についての論争は、いずれの立場の人にも「理解の科学を成果を採り入れなさい」と申し述べたい。お上に文句をつけられないように、正しいことを列挙するだけの教育が行われるならば、単元が増えようと減ろうとさしたる変化はないだろう。様々な単元の削除、および上級学年への持ち越しが、空疎な「ゆとり」や「生きる力」(なんと情緒的な)だけに向けられるのであれば、それは全く意味を持たない。また、これに反対の立場についても、それが現状を維持しよう、あるいは拡大しようというだけならば同様に意味を持たない。現在の科学離れは、今の教育がもたらしたことを忘れてはならない。
あと、他の論文もおもしろいのがたくさんありました。ぜひ読むことをお勧めします。ちなみに、11月号でも、この特集が連続して組まれました。詳しくは、 科学のホームページを見てください。