会田誠の息子の話を読んで学校の機能を考える

だいぶ前に,会田誠の個展(六本木ヒルズ)に行ったついでに『カリコリせんとや生まれけん』(幻冬舎文庫)を買って読んだのを,少し前に読み返した.いろいろと書きたいことはあるのだが,彼の息子の話(彼の妻による)が大変に印象的だった.

彼には寅次郎という名前の息子がいる(今はもう大学生くらいかな,都美で作品を撤去させるさせないでもめたが,この本の当時は小学1年生).学校では完全な逸脱者で,先生の言うことは聞かない,席に座っていない,(小1のくせに)先生に口答えする,恐ろしく大人びたことを言う(校長に直談判、学校粉砕等々),教室で全裸になるなどで、学校からは専門家に見てもらって、特別支援学級に行くことを勧められている.しかし、家では確かに聞かん坊であり,変わったことをするが,別段特殊というわけでもないという(会田夫妻談).母親は学校の教師とのやり取りに疲れ果て,ノイローゼになり,それから皮膚炎にもなり(夫談)、『死にたい』(たぶん冗談)と何度も口にする.なにやらこの奇行は父親譲りなんだそうだ.

さてこれを読んでいると,大学院時代にMichael Coleが書いていた論文を思い出す.グループ生活では全く問題ない、逆にリーダー的な存在である子どもが、学校の中では問題児とされ,(名前は忘れたけど)「なんとか障害」とされているというやつだ.覚えている限りでColeたちはこれが学校とは別の有能さを示すものであるというような、ある意味ヒューマニスティックな結論を出していたように思う.

しかし、問題はそういうことではないように思える.それは学校というものが持つ機能の話だ.教育社会学者の竹内洋(元京大教授)は,学校の持つ社会的機能は2つである(2つしかない!)と述べている.1つは社会化で,もう1つは選別である.二つ目の方はいろいろとあると思うが,1つめは多くの人が納得することだと思う.社会でちゃんと生きられる人間を育てるというのは,教育という分野に税金を山ほど使うことの根拠となる大事なものだ.でも簡単に言うと,「黙って言うことを聞け」という話だ.教員採用試験という,この常識の度合いを測るテストによって選ばれた先生たちは(別に悪い意味ではなく)きわめて常識的であると思う.よってこの人たちが思うような社会化が教室でなされれば,(大きな変革がない限り)生徒たちはうまく社会適応できるであろう.

当然のことだが,そこでいう社会化とは,支配者の思惑の中での社会化に過ぎないということも頭に入れておく必要があるだろう.この思惑とは,自分たち支配者が決めた規律に従え、反抗するな,その根拠を問うな,というものだ.教師は一人ひとりのことなんかかまってられないし,そんなことをいちいちするよりも、まず自分を見習えみたいな感じで進むのが効率的だ.まことに情けない,と歯ぎしりする方もいるだろうが,少なくとも日本で社会生活を送るというのはそういうことだ.それにしたがわなければ特別な場所に送られるということだ.

そういうところからはじき出されたのが寅次郎くんだと思う.正直,どうしようもない気もします.いろんな病名が増えて,その判定をする資格保持者が増えて,「ちょっと変わった子」では許されなくなってきたわけですね.これについては,親が逞しくなる以外の方法はないかな.

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