認知科学会のサマースクールに参加した.これは日本の認知科学のパイオニアの一人で,慶應の塾長を経て,現在学術振興会の理事長を務めている安西祐一郎先生の発案で,認知科学会の主催で昨年から行われてきている.基本は,若手の研究者とほどほど年をとった研究者の対話から,認知科学の源流と最先端の成果を結びつけ,今後の認知科学の活性化を図る目的で行われている.昨年は安西先生が3日間,連続で講義するという信じられないプログラムで、もちろん参加した.得ることはたくさんあり、このBlogでも報告しようと思ったが整理しきれず、下書きとして眠っている.
さて初日の安西先生のレクチャーはやはりそうとう刺激的だった.いろいろと得るものがあるのだが,representationの捉え方について,きわめてすっきりしたのでここに報告したい.
representationというのは表象と訳すのがふつうだと思うのだが,認知科学では『表現』と訳すことも多い.工学系の人は表現という言葉を多用し,認知や心理の人は表象という言葉を多用する.たとえば,コンピュータ上で知識を何らかの形で表す場合には『表現』が用いられ,『表象』という言葉は使われないわけではないがあまり用いられない.
なんとなくこの語感はわかっているつもりだったのだが,この根源がMarrの著作に由来する思想と関連づいていることが,安西先生のレクチャーの中でわかった.Marrによれば,representationとは情報(そのタイプ)とその組み合わせの仕方を明示するformal systemということになる.そしてこれを用いて表現された具体的なものはdescriptionと呼ばれる.つまりMarrによれば,表現形式,表現のための型とルールがrepresentationということである.Marrの考え方は,形式論理における理論とモデルとおそらく同じだと思う.世界を記述するための理論とそれによって記述されたモデルということである.
このように考えると,日本語での『表現』というのはMarr的な意味でのrepresentationであり,『表象』というのはdescriptionということになる.たとえばスキーマ表現とか、脳内表現とか,分散表現とか,representationがそういう使われ方をする場合には表現のための系を指す.一方,表象という場合には特定の表現の下で記述されたもの(すなわちdescription)を指すということになる.
工学者がなぜ表現という言葉を多用し,心理学者が表象という言葉を多用するのはこうした事情によるということになる.工学者はさまざまな事物をコンピュータの中で記述するためのシステムに力点があり,心理学者はそうして記述されたもの自体に関心があるということなのだ.
こういう観点から見ると,representationという単一の単語に,我々が異なる訳語を当てることがとても妥当であることがわかってくる.