近況にも書いたけどNEDO(新エネルギー技術総合開発機構?)がやっている「未来の人工知能技術検討会」でお話をしてきた。中島秀之さん、尾形哲士さん、丸山宏さん、松尾豊さんなどが私の発表をもとにいろいろと議論をするという楽しい会だった。
- 古典的な認知科学からダイナミカル宣言へ
- 身体性認知科学と社会脳
- プロジェクション・サイエンス
という感じで30分程度のお話をした。
1はもういいとして、2はいろいろな議論をよんだ。人の知性というのは身体との絡みで進化、発達してきたものというのが身体性認知科学のポイントだ。脳というのは何かを「知る」ために進化したのではなく、より良い行動を生み出すために進化したということ。より良い行動というのは身体に根ざすものなのであるから、知性は身体が基点となっている。だから身体の状態、姿勢などによって、いわゆる「認知」というものが変わってくる(行為ー文一致効果などなど多数の実験あり)。また高級な知性の発現と考えられている言語も、その基盤が身体にあり、身体とそれを取り巻く環境との関係をアナロジカルに利用したものとなっている(レイコフ)。
2は社会が知性を生んだというものである。つまり社会生活に必要な様々な認知機能が知性の根本にあるとなる。ヒトは20万年前あたりにサバンナに進出(追放)され、わずかな食料と凶暴な捕食者がいる世界で生きていくことになる。これは大変なので集団で生活するようになったと言われている。集団を作ることにより、薄め効果(集まって暮らしていれば捕食者の餌食になる確率が減少する)、ホームベース機能(餌などを共有することによる飢餓の回避)を得ることができる。こうした中では協力が必須のものとなる。協力のためには、誰が味方か敵かという個体識別、誰が自分に餌をくれたか(くれないか)、自分が誰に餌を与えたか(与えないか)を記憶する必要がある。また誰がボスの近親者であるのか、自分の序列はどこかも記憶、推論しなければならない。こうしたことが知性を発達、進化させた。つまりそういうことを上手にできる個体が次世代へと自分の遺伝子を残すことができたわけだ。
さらに農業の発明によって食料の備蓄ができることにより集団規模が拡大する。農業は、現代人が美徳とする様々な心性を生み出した。倹約、勤勉などはまさにそれだろう。あるものをすぐに消費せずに備蓄する、すぐに利得とならないことに従事するなどはそれだ。一方、内集団での独占、外集団への敵愾心などの内集団主義は、これらの裏返しの心性となる。農業は一層の協力が必要な作業であり、これに違反するものを監視する必要がある。こうしたことから階級が生み出された。また外敵から集団を守るために軍事組織も生み出されることになる。これによって集団規模がさらに拡大したことにより、勤勉さを監視する仕組みが必要になり、これが神、宗教を生み出したという。非協力者は人の目から逃れてズルをしても、神が見ているので神によって罰せられるという話である。これは信仰心を生み出す(現代宗教とはだいぶ異なる部分もあるので、あくまで当時の宗教としておく)。長谷川真理子さんと山岸俊男さんによれば、これが幻想であり、幻想の共有が「群れ」と「社会」とを区別するという(だからシマウマやアリは群れであって社会は構成しないという)。
さて会議での議論のポイントは、身体、社会がヒト知性の基盤にあるということなのだが、果たしてAIはそうなっているのかということだ。当然だがなっていない。一部のロボットを除けば身体は存在しないし、仮にあったとしても自分の身の安全、食料確保、生殖の相手を探すというような生物としての基本機能を備えたものはないだろう。ある作業に特化してトレーニングされるだけである。また当然だが社会も存在しない。基本的にはボッチで計算を行なっている。これでは幻想は生まれないし、共有する相手も存在しない。
さて議論の中では、ヒトの知性は確かに身体に基づき、社会が育んできたものだが、AIはそのような知性を持つ必要があるかという話が出た。単純な道具、ものすごい賢い電卓のような使われ方をするのであれば、無論身体も社会も必要ないだろう。道具、奴隷として存在しているだけのことだ。しかし人の生活にいろいろな形で入り込むようなロボット(例えばお掃除ロボット、介護ロボット、自動運転もそうかも?)は、やはり人が共感を覚えるような、そして人と共感をできるようなものである方が望ましいのではないだろうか。でないと、ロボットが人の意図を理解することはできないだろうし、その逆、つまりロボットの挙動を人が理解することもできないことなる。お互いがお互いにとってのエイリアンとなってしまう危険性が高い。