前野は受動脳仮説というとても挑戦的な仮説を提案している(おそらく彼自身は仮説とは考えていないが).意識というものは我々の日常的な活動に全く関与しない.環境からの多種多様な情報を処理するのに長けた、多くの小人たちが脳の中に存在し、それらがそれぞれの思いの下で勝手に行動する.日常生活はそれで終わりである.しかし何らかの理由で進化した意識システムがこの小人たちの活動の結果を知るところとなる.そこで意識システムは小人たちにご苦労さんというかというとそうではなく、なんと恩知らずなことに自分が小人たちを動かしてやったという作話を行う.だいたいこれが前野の語る受動脳仮説というものだ.
どうしてこんな作話が可能になるのだろうか.これを考えるときに参考になるのはダニエル・ウェグナーの『見かけの因果』という大変に魅力的なアイディアである.我々人間は様々な出来事の間に原因と結果という役割を与えてながら世界を理解している.急に部屋が明るくなったとしたら(結果)、誰かが電気をつけた(原因)のだろうと思う.さんまが焼けるにおいがした(結果)ならば,誰かが近くでサンマを焼いている(原因)のだろうと思う.
原因となる事象と結果となる事象の間には特定の関係が必要になると考えられている.まず原因は結果よりも先に起こっていなければならないというものである.さんまのにおいがしたことが原因で誰かがサンマを焼くなどということはない.後に起こったことが先に起こったことを引き起こすということは論理的に有り得ない.もう一つは意味的関連性である.結果となる事象の前にはさまざまな事象が起きている.しかしそれらの大半は原因とはなり得ない.部屋が明るくなる前には、自分は食事をしたかもしれないし、外で犬が鳴いたかもしれないし、昨晩は妻の誕生日だったかもしれない.しかしこれらはいずれも原因とはなり得ない.食事や犬の鳴き声や妻の誕生日は部屋が明るくなることとは意味的に無関係だからである.
この意味的関連性については,ガルシアとケリングの行ったとてもおもしろい実験がある.この実験ではネズミにちょっとかわいそうなことを行う.檻に閉じ込められたネズミがそこに置いてある水を飲むと,そのネズミに大量の放射線を照射する.これをされると人間同様ネズミは吐き気を覚えることになる.吐き気はもちろん嫌なことなので、ネズミは水を飲まないようになる.これは当然のことである.さてこの実験で水を飲んだ罰として与えられた放射線を電気ショックに変えたらどうなるだろうか.むろん電気ショックも楽しいはずはないので、水を飲まなくなるように思える.しかしこうした条件ではネズミはいつまでも水を飲み続けるという(そして電気ショックを与えられ続ける).
さてネズミはなぜ電気ショックのときには水を飲むことをやめないのだろうか.ネズミの気持ちを代弁すれば、『そんなこと有り得ない』からである.水を飲んで電気的なショックを感じるなんて有り得ない、つまりこの2つの出来事の間に意味的な関連性が見つけられないのである.人間だってそうだろう.何かを口にして気持ちが悪くなれば食べたものが原因だとわかる.しかし電気的な痺れを感じたら,その原因が水にあるとは思えないだろう.
少し寄り道が長くなったが、因果関係には原因の時間的な先行性と原因と結果の間の意味的関連性が必要ということが理解できるだろう.ということで意識の作話に戻ろう.ウェグナーによれば,すべての人間の行為は無意識的なプロセスの産物である.ところが人間はこの無意識的プロセスが進行している中でなぜか『意図』というものを発生させてしまう.そして面白いことにその意図は実際に行為が開始される前に発生するようである(リベットの実験を思い出してほしい).さてそうすると、行為という結果を観察すると、その直前に意図が発生していることに気づくことになる.この意図は行為の直前に生じており、かつ行為そのものと意味的に関連しているので(だって,その行為をやろうという内容を含んでいるのだから)、人間の因果原則に照らして原因となる資格を有していることになる.そうしたことで意図が行為の原因だという錯覚が生まれるのである.
コーヒーカップに手を伸ばすという行為を取り上げて具体的に考えてみる.ふつうは自分が手を伸ばそうと思った,つまり手を伸ばそうと意図したので手が伸びたと考えるはずである.しかしウェグナーによれば,そうではないことになる.コーヒーカップに手を伸ばすことは意図とは無関係に完全に無意識的に実行される.しかし手を伸ばす直前に,おそらく0.2秒前に,この無意識的プロセスは『手を伸ばそう』という意図を発生させる.なぜ手を伸ばしたか、その原因を考える際に,本当の原因である無意識的プロセスは無意識的であるが故に原因の候補とはなり得ない.その結果、原因の候補として唯一残るのは,『手を伸ばそう』という意図だけになる.よって『手を伸ばそうと思ったので手を伸ばした』という見かけの因果関係,つまり作話が成立することになる.
興味深い例から,同様のことを主張しているのがスーザン・ブラックモアである.この例とは次のようなものだ.冷蔵庫を知らない人がいたとしよう.この人は冷蔵庫のドアを開けて中にいろいろなものが入っていることを知ると同時に、冷蔵庫中にはライトがありそれが中を照らしていることも知る.何度開けてみても、ライトはついている.こうしたことから冷蔵庫のライトがいつでもオンになっているという結論を出せるだろうか.
意識状態にあるだろうかと自分に問いかける.するともちろんそうしたことを意識できるので『私は意識状態にある』と答える.何度繰り返してもそうである.こうしたことから、私たちは自分にいつでも意識があると考えてしまう.しかしそうした問いかけを行わないときにはどうなのだろうか.意識はあるのだろうか.冷蔵庫のドアが閉まっているときにはライトがオフになっているように、私たちが意識的な問いかけを発しないときには意識はオフになっているのかもしれない.
コーヒーカップをつかむ話も微視的に考えれば,意識や意図なんか全然関係していない部分がたくさんある.腕を伸ばそう,適当な位置で止めよう,手を開こう・閉じよう,指に力を入れようなど,たくさんの微視的な行為がここには含まれているが,そういうことを意識することはほとんどない.だから身体は意識とは無関係に勝手に動いているのだ.
彼女はこうしたアナロジーから,私たちの通常の活動の中には意識もクオリアも主観的経験も存在しておらず、我々の生活する環境に高度に適応した脳が意識の働きの助けを借りずに,つまり自律的に反応し、体が動いているだけなのだという.そして意識は錯覚に過ぎないと主張する.どんな錯覚かと言えば、我々は経験を意識化し、意思の力によって行為を行うという錯覚である.