Social VR,Avatarについて考える

「アカデミックとVRユーザをつなぐ学術イベント「Close Encounters of the Third Kind(第三種接近遭遇)」第三部」というイベントに参加しました.他に,小鷹さん(名古屋市立大),田中さん(東海大),鳴海さん(東大)が発表された.大変に面白いイベントで,予定を1時間半オーバーし,3時間半に及ぶものだっだけど,最後まで楽しめました.それを通して色々と考えたことがあるのでまとめてみたい.

Social VR及びそこでの体験

Social VRとは,VR装置を用いてアバターなどを操作しながら,他者とのコミュニケーションを行うものを指す(その場なのか,そこでの相互作用のことなのか,そういうシステムを指すのかよくわかりません).全く経験をしたことがなかったのですが,このイベントもVRChatという有名なSocial VRを用いて行うとのことでしたので,初めて体験しました.よくわからなかったので院生の小田切くんと練習をしたりしました.もっともイベントではうまく働かず,MCの方以外は結局Google Meetでやったのですが・・・

まず第一部でユーザたちの体験が語られました(これは1週間前に行われたものです9.これは以下のようななかなか面白いというよりも,衝撃的なものを含んでいました.

  • VR感覚:尻尾とかトサカに感覚を感じる
  • VR酔いが,社会的インタラクションによって消失した体験
  • メス堕ち:自己同一性が同一性ではなく同二性の獲得(自己の多重化)
  • VRヒプノセラピー:VR上での経験が,実際の身体上の変化(痛み,嘔吐)を生じた
  • VR断首台:VRでギロチンで殺される時の,衝撃の体験

VR上の尻尾を触られると,実際の自分にその刺激を感じるとか,断頭台はものすごい衝撃だそうで,首にものすごい衝撃を感じ,意識が遠くなり,動けなくなり,冷や汗が流れ出るそうです.

こうしたことを主催者の一人であるDanteさん(小柳さん@東大)が以下のようにまとめていました.

  • 実在しない身体部位への感覚
  • 提示しない感覚の出現
  • 複数の自己=アイデンティティの獲得

Social VRでの不思議な体験をどう考えるか

これらはどのように考えれば良いのかを,四人の発表者でディスカッションをしました(各自の発表とその後の議論はここで視聴可能です).一番目と二番目のは,おそらくバーサローの述べる知覚的シンボルシステム(Perceptual Symbol System),マルチモーダル・シミュレーションという認知的な仕組みで説明がつくだろうと思います.この考えに従えば,私たちの体験はほぼいつでもマルチモーダルなものとなっています.リンゴについての体験は,リンゴの視覚情報だけでなく,それに触れた時の触覚,その香りに関わる嗅覚情報,かじった時の聴覚,触覚,味覚情報,その時の体感に関わる自己受容感覚,内臓感覚などからなっています.これが私たちのリンゴの概念の成立に深く関わっているわけです.こうした体験を重ねた人が,リンゴに関わるいくつかの情報を受け取るとつまりいくつかの感覚に刺激が与えられると,リンゴに通常備わる他の感覚も自動的に生起するというのがマルチモーダル・シミュレーションです.

実在しない身体部位に感覚が生じるというのは,VR上で自己と認識されている部位へ刺激が与えられると,その部位自体は存在しないけど,他の部位に対する刺激を受けた時の感覚を転用して,それをプロジェクションした結果生み出されるというように考えられると思います.

提示しない感覚の出現もまるで同じ仕組みで説明可能でしょう.私はVRの経験はお遊び程度しかありませんが,VR上の手にチョウチョが止まった時には,その直前に羽ばたきのような風を指に感じましたし,それが乗った時にはこそばゆいような感覚が生じました.これは類似した経験を転用し,それが指にプロジェクションされた結果と考えることができるでしょう.

こうした自然な身体感覚のプロジェクションは,Gallagherによるminimal selfと深く関係しているというような議論をしました.minimal selfは身体所有感(body owenership),行為主体感(sense of agency)からなる,最小限の自己のことです.VR上のアバターはユーザにとっては自分の身体と考えられているため,そうした身体への刺激は自動的に日常的なマルチ・モーダルシミュレーションを引き起こすわけです.

三番目の自己同一性の崩壊というのか,拡張というのは,ミニマル・セルフではなく,ナラティブ・セルフということに強く関係するものです.ミニマル・セルフが無意識の中の自己,主体としての自己であるのに対して,ナラティブ・セルフというのは意識の上の自己,及びその主観的なイメージに支えられたものです.身体に関して言えば,Gallagherは前者にはbody schema,後者にはbody imageという言葉を当てています.ナラティブ・セルフは自分の身体についての(つまり自己についての)イメージであり,ぶよついてるよなぁとか,ガリガリだ,みたいな感じです.またこれにはなりたい自己,身体というのも含まれていて,プールに出られる身体を手に入れるみたいな想像上のもの(及びそれと現在の自己の身体との乖離)も含まれたりします.

こうした自己は,社会的な相互作用の中で生み出されるものです.人に見られる自分,他者の姿,他者からの評価などが,このナラティブな自己の生成には欠かせません.VRChatなどにおける他者との交流は,こうした自己の精製の場となります.

この背後には何重ものプロジェクションが入っていると思います.そもそもアバターに自己をプロジェクションする,プロジェクションされたアバターに(推論上の)他者の視点をプロジェクションし,そこにその人の感情を推定する,などなどです.Social_VRで活動ができるのは(或いはできないのは),こうしたプロジェクションの有無,多寡が関係しているのでしょう.

このナラティブ・セルフの形成の際にして,他者がいる中で自分が美少女のアバターで現れるということは,いつものナラティブ・セルフとは異なるものを作り出すわけです.美少女キャラで他者(のアバター)と接している中では,メス堕ち,という衝撃的な事態も生じるようです.メス堕ちというのは,今回まで知らなかったのですが,男性が女性のアバターで活動する中で,素敵な男性のアバターに恋をしてしまうという現象を指すようです.つまりリアル世界では男性であるのに,女性という別のアイデンティティを確立し,そして男性に恋をするわけですね.

自己の多重性を支える前適応,外適応

ただこれは新たな自己,人格が生み出されたと考えるべきなのかどうかはよくわかりません.というのは,通常の世界の中で男性として暮らしていても,その中に女性性は含まれていると思います.最新の脳科学でもそれは明らかにされていて,男性か女性かはスペクトラムとして捉えるべきだという説が現れています.ですので男性であっても女性のタネ,女性であっても男性のタネを元々有していたのが,新たな外観とそれを取り巻く社会によって,芽吹いたというか,発芽したという考えもできるからです.或いはヘテロセクシュアルな芽とホモセクシュアルな芽が存在していると考えても良いのかもしれません.

これは前適応(preadaptation),外適応(exaptation)とのアナロジーで捉えるのが良いかなと思います.前適応というのは,ある機能を持つ部位,或いは神経配列が出来上がっているのだが,それが発現しない状態が続き,その後環境の変化によってそれが発言するというものです.ホミニンの進化過程でホモ・ハビリス,ホモ・エルガステル以降は,急激な脳容量の増加が見られますが,その間に行動上(化石,遺跡から見られる)の変化は大きなものではありませんでした.しかしハイデルベルゲンシス,ネアンデルタレンシス,そしてサピエンスの出現により,潜んでいた回路が一挙に表舞台に出てきて,様々な認知的な革命を起こしたのではないか,という説があります.

外適応というのは,本来その目的で生み出されたものではない部位(機能)が,後からの必要性によって別の用途に使われるというものです.ブロカ野は発話中枢などといわれたりしますが,むろん発話のために生み出されたものではありません.計画的な行動,習慣的な行動の抑制のために生み出されたものが,それと同じ機能を要求する発話において用いられるようになったわけです.reuseとか,redeploymentなどと呼ばれたりするのは,これと同じことです.

私たちは日常生活に対して統一した自己として対応しているわけではないと思います.家庭での自己,職場での自己,同僚などとのインフォーマルな場での自己,性生活の中の自己など,多様な自己,つまりmutiple selvesとして生活していると思います.こうしたことが,VR世界というでの新たな環境下での,別の自己の生成への前適応,外適応と考えられるのではないでしょうか.

現実の多層性,多重性

このイベントを通して,また以前のイベントの報告などをみながら,考えさせられたのは「現実」とは何か,ということです.VRを仮想現実と訳すのは問題だという指摘は昔からなされていますが,そのラインの話ではなく,この空間上で起きていることは仮想なのかということです.

仮想現実は,仮想という言葉つくが故に,いわゆる「現実」とは異なると考えたくなります.しかしそこで活動している人たちの報告を読めば,それはいわゆる「現実」と思わざるを得ません.その空間上の他のユーザからひどい言葉をかけられ,ひどく落ち込み,認められるととても幸せになる.断頭台に登りギロチンが落ちてきてひどい痛み,意識の遠のきを感じる.自分の女性性に気づき動揺する,これらは身体感覚,豊かな感情に彩られています.その有り様は,いわゆる「現実」とどこが異なるのでしょうか.

講演の中でも言いましたが,宗教もそうです.私はキリスト教系の大学にいます.どこでもそうだというわけではないでしょうが,教授会などの前には,そもそも牧師なのですが,宗教主任という名前を大学から与えられている人たちがいて,毎度お祈りをします.個人的にはほとんどの場合はピンときません.ただ,それを述べている人たち,またキリスト教を信仰している教員にとってはやはり「現実」なのだと思います.そういうふうに世界が見えているということです.そのことを否定するのはナンセンスかなと思います.

まあ言いたいことは,現実は1つではないし,複数の現実が存在しうるということです.どれがバーチャルなのか,何が副次的なのかは,当人のその現実へのinvolvementによって変化するのではないでしょうか.家に引きこもり,一日中ネットの世界で活動している人にとってはそれが現実ということだと思います.

現実性については一昨年,昨年と大事な本が出ています.

  • 入不二基義『現実性の問題』筑摩書房
  • 西郷甲矢人・田口茂『<現実>とは何か』筑摩書房

今のところ,これらの本をうまく消化できていないので関連付けはできませんが,上のような主張をサポートするような議論があったように記憶しています.またガブリエルなんかの主張(思弁的実在論?)にも何か繋がる予感がします.読み返してみようと思います.

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