松井冬子展

今日,横浜美術館に行って,松井冬子展というのを見てきた.ここに紹介のページがある.

朝日新聞に紹介されていたり,その前もどこかで評判を聞いていたり,そういうことで出かけた.美術について専門的なことは何も言えない.でも、おもしろい(?)ことに気づいたので2つだけメモしておきたい.

一つ目は,表現というのは何かのあり方を見せるものなのであり,その表現を通して、そう見えた作者の視点を頭の中に作り出し、再体験することなのだ.再体験というと,作者と同一化するかのように思えるかもしれないが,むろんそうではない.描かれていることはあくまで素材であり,そこから視点を「作り出し」、それらを一貫した形の経験として作り上げることがポイントだ.もっとも一貫性はそんなに簡単には確立されないので,結果としてできる視点,そこからの見え,経験は、作者と同一のものになることも多いのかもしれない.むろん作り上げられるものが常套句,clicheのようなものであれば,作品が悪いか,見る人が悪いかわからないが,大した経験にはならない.ポイントは、容易な言語化を断じて拒む再体験だろう.そうした再体験は言語化を拒むが故に,しかし深く自らに根ざすゆえに,身体的、情動的な反応として、体験されることになるのではないだろうか.

今回の展覧会では、今まで見たものとは異なり,「すごい」とか「上手」とかそういうものではなく、込み上げる、ため息をつく等の身体反応が出てきた.評論家であれば、こういうのを言葉にしなければならないのだろうが,幸い(残念ながら?)自分はそうではないので,言葉にする必要はない(できない?).

今回は作者の下書きとか,これの元になる写生とか,そうしたものも一緒に展示されていた.そのなかで、上のリンクページにある「世界中の子と友達になれる」の下絵が6枚ほど並べてあったのには強く興味を惹かれた.少女の位置,右端にあるゆりかごの位置、などについての様々なバリエーションが並べられていた.またその中の一枚には、よくわからないけど言葉によるメモ等が残されている.こういうのは、作る側からすれば当たり前ということなのだと思うが,何かが「爆発」して、それを一挙に描き上げるというのとは全く違った芸術家の姿を示している.創造的表現というものは、何か一瞬のこと、いわゆるひらめきのようなものとしてイメージされることが多いと思うが,そうではないということだ.

以前にも俵万智さんの短歌について同じことを書いた覚えがあるが,創造というのは決して一瞬で終了するわけではなく,ある時のひらめきを何度も練り直し、部分的に表現し,そこからまたイメージを膨らませ,また練り直し,表現すると言うサイクリックな営みということなのだ.こうしたことは,自分が行ってきた洞察問題解決における「ひらめき」の姿とよく似ている.

横浜美術館の常設展というのもついでに見た.はじめの方は横浜開港辺りの時代の西洋人の油絵,写真などが展示されていて,郷土資料館みたいな感じだった.しかしだんだん,すごいのが出てきて,ピカソ、ブラック、マグリット、ダリ、エルンスト、タンギー、レジェ、カンディンスキー、ブラマンクなどのすごいのががんがん出ている.また行ってみようと思います.

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