サンデル教授の番組、類推,オープンエンドの授業の意義

マイケル・サンデルと言えば,もう説明の必要もないだろう.ハーバードで最も人気のある授業を担当する倫理学の教授で,日本でもNHKで放送されたり、著書がベストセラーになったりする有名人だ.

今日,彼が日本の有名人(斉藤慶子,シェリー,猪瀬直樹,ジャパネット高田の社長,野球の古田)と、日本,中国,アメリカの学生たちを相手にした番組を見た.大雪の時に雪かきスコップを突然値上げした店の話から始まり、年会費を払わなかったので火事の時に消火を拒まれた人の話(アメリカでの実話),成績の良い子にはボーナスを払う学校の話、代理母出産の話等,金と道徳に関わることについての議論が行われていた.

ここではいくつものおもしろい類推が行われていた。一つ目は火事の話だ.テネシー州のある郡の方針で火事の時のためにその地域の住民は年会費(確か75ドル)を払うことになっていた.しかしXさんはそれを払っていなかった.不幸なことにこのXさんの家がある日火事に見舞われた.彼は消防署に連絡した.消防車は来るには来たが,彼の家には放水せず,近くの年会費を治めた人の家に類焼しないかを見守っていただけだったということだ.彼は、年会費はこれから必ず払うから消してくれと懇願したが,無視されたそうである.

むろん強い憤りを覚えるし,アメリカに生まれなくて(正確にはその郡に住まなくて)よかったと思う人がとても多いと思う.人の生命に関わることを金の問題にすり替えるとは言語道断ということだと思う.

しかしこの郡の当局者が取材に答えていた時のアナロジーは大変におもしろかった.「自動車保険に一切入っておらず,事故を起こしてしまった人がいるとする。この人がこれから保険に入るから、ぜひ損害賠償の費用を払って欲しいと言っているとしたらどうします.今回の火災の被害にあった人はこれと同じだ」というものだ.

これはとても素敵な類推だと思う.「事前の契約が災害を補償する」という意味では二つとも同じだから.そういう意味では、つまりこの自動車保険の話に賛同すれば、不可避的に火事の話に関して消防局側の立場を肯定せざるを得なくなる.しかしそうはならない.確かに自動車事故の場合だったら依頼者に対して「ふざけるな!」と一喝して終わりになると思う.しかし、火事の場合には明らかに消防局の不作為を素直に受け入れることはできない.どうしてなのだろうか.

学校でのボーナスについてもそうだ.この話を素直に肯定する人は(少なくとも日本では)かなり少ないと思う.しかし、会社に行ったらどうなるのだろうか.頑張った人がそれだけの報酬を得るというのは何ら問題ない,というかそうでなかったら逆に不自然だろう.学校ではなぜそれがだめなのだろうか.またお金と言えばかなり極端で反論する人が多いと思うが,成績はどうなのだろうか,お褒めの言葉はどうなのだろうか.そういうふうに考えていくと,だんだん自明であったことがそうではなくなってくる.

代理母についてもそうだ.日本人は比較的代理母についての許容度が高いような気がする.少なくとも参加者の多くは認めていたと思う.仮にそれは認めるとして,では危険な戦地に行くことが確実な徴兵制があった時に、自分の息子を救うため金を払って別の人に行ってもらうというのはありなのだろうか.こういう議論がなされていたのだが,代理母については認める人も,後の方については認めないというのが多いのではないだろうか.根源的には,人の身体を自分のために使うということだが、どうしてこのように答えは一貫しないのだろうか.

これについてアメリカ人の大学生は、この行為は基本的に売春と同じだと述べていた.何人かが反論していたが,女性が自分の体を使って金を得るという意味では同じだと述べていた.これについてどちらが正しいとは言わない.ただ、では人が筋肉を使って労働する場合(たとえば道路工事とか)はどうなるのだろうか.当然合法だとされている.しかしでは筋肉と子宮は何が違うのかと言われるとわからなくなる.代理母の場合も筋肉労働の場合もむろん合意の上で行っていることであるし,それによって報酬を得ているのだ.なぜ片方はとても自然で,もう片方は不自然、不道徳になるのだろうか.

これらについて何が正しいということを主張したいわけではない.主張したいのは、アナロジー,類比、こういうものの持つパワーである.対象を変えてみる(火事ー>自動車事故)、動機・目的を変えてみる(生命の誕生ー>危険の回避)などによって、ある意味では同じような状況について、私たちは全く異なる結論を出すことになる.大事なことは,ここからだ.確かに考えてみれば同じような状況であるにもかかわらず,どうして自分はそこに対して全く異なる判断を下すのか.たぶんそれは2つの状況が違うからだろう.では何が違うのだろうか.という形で反省が行われる.場合によっては判断をどちらか1つに絞ることもあるだろう.また別の場合には,対象や動機が実は重要であり、そこで事象を区別するための新しいカテゴリーが作り出されるかもしれない.たとえば、火事の場合でいえば,2つともサービスとその他以下の問題であるが,公共サービスと非公共サービスは一緒に考えてはまずいのではないか、などというものがあるだろう.このような形で類推を導入することは思考の深化,創造というものを促すことになる.またこうした思考の仕方は、市民リテラシーと呼ばれるものの中で大事な役割を果たしていくのではないかと思う.

もう1つ書いておきたいのは,サンデル教授のやり方だ.何かの結論を導きだすということは(少なくとも授業,番組においては)目指されていない.彼はオリジナルの状況に対して次から次と変形を施すことにより,様々な事例を作り出し,それについて考えさせる.倫理学的にはある意味決着のついた議論も出てくるのかもしれないが,そういうことはあまり言わない.類推と類比と反省と一般か,特殊化をとにかく促す.これは大事な講義方針なのだと印象づけられた.

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