英語翻訳ソフトで外国語教育を考える

本学の日本文学科の近藤先生が書いていた翻訳ソフトの記事に触発されて,少し前から考えていたことを書いてみたい.

この私のBlogを読むような人だとGoogle翻訳というのは使った人は多いと思う.近藤先生の記事では,Deep Lというソフトの便利な使い方が紹介されていた.少し調べると,DeepLというのはGoogle翻訳を超えた翻訳が可能という記事がたくさん見つかった.実際にやってみると,確かにすごい.自動翻訳の昔を知る(ユーザとしてだが)私としては,本当に驚異的だと思う.先生の記事では,Googleの機能拡張として入れるとさらに便利になる使い方が紹介されていた.むろん日→英だけでなく,数十ヶ国語の翻訳が可能になる.

音声系の翻訳ではポケトークというのもだいぶ前から販売されている.これも少し前に友人から借りて使った時には心底驚いた.日常会話的なことならば,そしてそれが前の文脈とあまり関係なければ,ほとんど完璧な翻訳を行う.私の日本語の論文の一部も入れてみたが80-90点くらいの出来だったように記憶している.

マウス操作だけで,知らない国の言葉が自分の国の言葉になり,そこで考えることができる.DeepLは無料で始められるし,ポケトークだって数万円程度だ.数万円で数十カ国語の翻訳が双方向で可能になる.

こういう時代になると,外国語を学ぶということの意義を考え直さざるを得ないのではないだろうか.正直言って入試なんかに外国語は必要なのだろうか.

大学の先生や語学の専門家たちは,むろん反対すると思う.他の言語に触れることで,思考の違い,世界の区切り方の違いなどがより良く理解できる,というような反論だ.確かにその通りだと思う.私も英語とフランス語は随分と勉強し,その中で何回も感動するような場面があった.そういう体験は,研究者として欠かせないように思う.

確かにそうなのだが,それは研究者としての話だ.相手の言っていることをとりあえずのレベルでわかるという世界の方が,言語の本質に迫り,それと人間の関係を考えるという世界よりも遥かに一般的だと思う.つまり学者になるのならば外国の言語の習得はある意味で必須なのかもしれないが,それを公教育の中で展開し,それによって人を試験によって差別化していくことは正当なことなのだろうか.差別化が問題なのではなく,当たり前に使えるツールがあるのに,それ抜きでのパフォーマンスを測ってどんな意味があるのだろうか,ということだ.

「自力で」という反対勢力の人たちに対してもう一言言っておきたい.よくよく考えれてみれば,電子辞書はもちろん,紙の辞書も一種のアプリだ.私たちの世代はこれらを用いて外国語の勉強をしてきた.しかし江戸時代,明治初期などで,辞書もない中で外国語の勉強をし,さらには辞書を作り上げた人までいた.そうした人が,私たちの世代を見れば,「辞書なんか使ってわかるようではダメだ」というのではないだろうか.

私たちのような古めの教員が,Google翻訳,DeepLでの翻訳をベースにした研究活動に対してネガティブなのは,辞書がなかった時代の学者たちが辞書を用いて勉強する人間を非難するのと同じくらい馬鹿げたことなのではないだろうか.

さてテクノロジーはすごい展開だ.もしDeepLの翻訳結果が特殊なイヤホンで聞けたとしたらどうだろうか(おそらく数年でできると思う,今だって読み上げ機能はあるし,Bluetoothでそれをイヤホンに飛ばせばいいだけなのだから).次に,話すべき言葉を発すると,特殊なスピーカー内蔵のインテリジェントマスクを通してその国の言葉に翻訳されたとしたらどうだろうか.そうした機械が開発される日は,それほど遠くないのではないだろうか.

そうした中で(新井紀子さんではないけど)大事になるのは読解(あえて「力」はつけない,そんなものはないからだ)だと思う.Deep Lなどに翻訳させても,難しいものはやはりよくわからない.私のゼミなどでもGoogle翻訳の結果を貼り付けたようなレジュメを見ることがあるが,難しいところはやはりわからない(本人もわかっていないようだ).一応述べておくと,ここで読解というのは文の示す状況を頭の中に再現すること,ポランニー風に言えば近接項として与えられた文から,状況という遠隔項に投射を行うことだ.

私自身は外国語の学習というのにはとても深い共感がある.定年後はポルトガル語に挑戦して,ボサノバを歌いたいと思っているくらいだ.ただそれは個人的な趣味にすぎない.50万人の若者の能力選別に,外国語は本当に必要なのだろうか.

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