ダイナミカル宣言III:認知的学習に欠けていたもの

ちょっと論文調で堅いのですが、直している暇がないのでこのままいきます。

認知科学、特に教授心理学、発達ベースの心理学では、主にBruner型の教育観が支配的であったといえよう。つまり、スキーマ、メンタルモデルを事前に与え、教えられることをうまく整理しながら学習を進めるというものである。

しかし、こうしたものは学習のoutputであり、それをそのまま与えれば学習がうまく進むかといえば、必ずしもそうとはいえない。というも、そのスキーマなり、モデルなり、ストラテジーなりが、必要とされる場自体を学習者が共有できていないことも多いからである。


たとえば、娘の漢字の学習を見ると、はじめはとても労力がかかる、非効率的な方法で学習を行なっており、またそれは間違いも多く生み出す。まさに「写す」という方法で学習を行なっている。似たような漢字がでてきても、それらを対比して学習するのではなく、それそのものを書写していく。たとえば、「休」と「体」はよく似た字であるにもかかわらず、それらを体系化して覚えようとはしない(横棒が一本足りないとか)。かけ算九九でも同様で、ひっくり返せば同じになるということを言っても、それをexplicitに使うことは学習初期には少ない。

他の例としてはOSコマンドが挙げられる。 OSのファイル操作を覚えると大変に便利なもので、これがいわゆる初級と中級の壁となる。私もコンピュータの授業ではこれを何とか教えようとしてきた。しかしながら、無理矢理やらせればなんとかやるが、なにかぼーっとした表情で、「そうですか、そういうのもあるんですか」という感じである。

しかしながら、なぜかある一定程度の学習が進むと、自発的にさまざまなストラテジーを用いたり、いぜんは教えられても用いることのなかったストラテジーが観察される。漢字の例でいえば、似たような漢字を対比させ、その違いだけを覚えるような方法を用いるのである。また、OSの例でいえば、勝手にOSのコマンドを用いたりするようにもなり、私自身が知らなかった方法を身につけることもある。

こうしたことは内部ダイナミックスによると言えよう。つまり、一定程度の知識が身につくことにより、それらが相互作用し会い、自己創発的にストラテジーやモデルといったものが生成されるのである。それらは自己の内部状態や課題の要請などから創発されるものであり、自分なりの創意や、工夫を込めたものとなっている。

教え込んでも、自分で発見しても結果は同じかも知れない。しかし、それが外部から無理矢理挿入される場合と比べれば、その真価がわかるのである。こうしたことが意識的にされるかどうかはわからない。しかし、あえて意識的にいうとすれば、「そうかもしれないけど、そんなこといわれたって、今はそんなことやっている時期じゃないの」という感じであろうか。潮時、臨界期というものが、学習には存在している。

こうした観点から従来の認知科学の学習研究を見ると、考え方だけではなく、研究方法にも欠陥が見えてくる。従来は、たかだか30分、長くても10時間程度(このくらいやるのはきわめて稀だが)の学習で習得できるような知識や、技能を扱ってきた。そうした場面では、覚えることも高々数十個程度であり、教えられるストラテジー、例題が持つ意味などを十分に理解できる可能性は少ない。たとえば、OSの学習の際に、いままで文書ファイルを数個程度しか作ったことのない人に、コピーはこうします、削除はああやります、ショーとカットはこう作ります、などと教えてみても、そのありがたみは決してわからない。数個ならば一目瞭然で、自分で「あれはいらないファイル」とでも覚えておけばいいからである。

つまり、従来のアプローチでは、知識や技能が蓄積され、自己創発的な組織化が始まる前に、学習が終ってしまっているのである。こうした場面では、人は愚かであるし、言われたことをよく吟味もしない、というかする必要がない。教えられると、「じゃあそうやればいいんですね」という次第で、数週間後にテストすれば、あるいは例題と異なることを行なえば、全滅である。

これらが意味することは、認知科学はより長期に渡る学習をもっと積極的に行なわねばならないということであろう。

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