横澤一彦教授最終講義から平均値を捉え直す

2022年3月13日に私が敬愛する(2歳だけしか違わないのだが)、横澤一彦さん@東京大学文学部教授が定年退職するにあたって最終講義を含めた催し物があった。横澤さんのこれまでの研究業績、さらに今後の展望を含めた最終講義に加え、横澤研究室(通称横澤組)の卒業生たちの素晴らしい研究まで一挙に聞ける、ものすごく素敵な会だった。このご時世なので対面とオンラインの両方で行ったのだが、400名を超える参加者がいたそうだ(ちなみに私は対面での参加)。

横澤さんの素晴らしい研究活動はここにあるので、ここであれこれ述べることはやめておく。印象的だったのは、横澤さんが教育、研究指導に並外れたレベルの努力というのか、熱意を持って取り組んでいたという卒業生、院生たちの報告だった。成果、業績を求めるのは院生指導の基本だが、そのために多くの時間を費やし、横澤さんのウルトラ知能でコメント、アドバイスを行っていた。さらに学生自体の興味関心を最大限尊重して対応するということを多くの卒業生たちが語っていたのもとても印象的だった。

最終講義は統合的認知を中心とした、ものすごく広がりと奥行きがあるものだったが、私がとても印象づけられたのは平均値の扱いだった。彼は反応時間の平均という例を出した後に、とても面白い対比のスライドを出した。それは色字共感覚に関わるものだ。色字共感覚というのは文字が黒く印刷されていても、そこに色が見えてしまう現象を指す。人口の1.4%程度がそうなのだそうだ。さて反応時間が500msから700msにバラけた時に、私たちは何の躊躇もなく平均600msとかと計算する。しかし色字共感覚において、ある文字が喚起する色を報告してもらう事態を考える。そしてその色の波長を反応と考える。そこから計算される平均値はどうなるだろうかというものである。400あたりだとほぼ「青」、700あたりだと「赤」となる。そして平均すると「緑」となる。それは意味があるのだろうか、そういう問いを横澤さんは発し、平均値の扱いというものの持つ問題、そして個人差という(あまり実験心理学者が向き合わない)問題の重要性を指摘した。

これはとても素敵な類推というか、比喩だと思う。ある現象の処理について人がさまざまな処理を行い、その結果を出力する。ここに関わるメカニズムを探るために反応時間を用いることが多いのだが、その結果は大抵の場合少しの処理を施した上で平均値で代表される。こうしたアプローチは正当化できるのだろうかということである。

実は平均値については私も認知的変化(発達、熟達等々)を論じる際に不適切だと指摘している(鈴木・大西・竹葉(2008)人工知能学会誌、)。発達心理学では年齢ごとに区切って、ある段階では正答率の平均30%=よってできない段階、別の段階では正答率80%=よってできる段階、というような区別がされる。しかし30%の正答率ということは30%ほど正解できるということだ。実は発達も含めた認知的変化には、この30%がとても大きな意味を持つ。5%、10%ではダメなのだが、30%くらい正解すると、次のステージに辿り着く確率が格段に高まるのだ。だからこれを「できない段階」というラベルづけをするのは、認知的変化のメカニズムを追う時には致命的なミスとなる。それらは次への芽となるものなのだが、研究上は誤差としてしか扱われない。これについて以下のように述べた。

平均は様々な揺らぎを平準化し、1 つの数値へと還元してしまう。そして 還元されてしまったあとには、その数字以外何も残らない。つぎの段階への発達の芽は平均値の算出過程でごみとして捨てられてしまったのである。このような乱暴な要約のみが用いられるとすれば、発達、学習のメカニズムは 永遠にわからないだろう。実際、研究者たちの多くは発達のメカニズムはまだなぞに包まれていると言う。本論文の立場からすれば、揺らぎを捨てされ ば発達がわからなくなるのは、目を閉じればものが見えなくなるのと同じくらい自明なこととなる(鈴木(編)『知性の創発と起源』第2章)。

だからと言って数値的なものをベースにした研究ではなく、「質的」研究を目指すべきだ、という主張には同意しない。数字を用いることで見えなくなるものもあるが、数字を用いるから見えるものもある。場面に応じて使い分ければ良いのだ。それは私と仲間たちがやってきたことでもあるし、横澤さんが迫ろうとしていることでもある。

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