もう出版されて2ヶ月ほど経っているが、『私たちはどう学んでいるのかー創発から見る認知の変化』という本がちくまプリマー新書から出版された。というか、著者は私だ。
自分は認知がどう変わるのかということにずっと関心を持ってきたのだということが、自覚できたのはそれほど昔のことではない。10年くらい前に認知科学会で会長講演というのをするときに、自分のこれまでを振り返り、「そうか、自分は認知というよりは、その変化に興味があったのだ」ということに気づいた。このときもう50は過ぎているから、自分は相当に鈍いのだろう。
80年代はまさに教育の文脈で認知の変化、特に転移、応用の問題に取り組んでいた。90年代はそれを支えるメカニズムが類推(アナロジー)にあるのだということで、それの理論的、実践的な研究を進めていた。この過程で「・・・能力」というような人間の集約の仕方が根源的に間違っていることにきづいた。能力というものはないということだ。これを1章で簡単な例とともにしるした。
この過程で教育、教授ということの限界を強く意識するようになった。教えようとしたって学ばない、教えようとしたこととは別のことを学ぶというのが人のふつうの姿であることがわかったと言うことだ。知識は伝わらないのだ。教師が伝えているのは情報に過ぎない。それらは単に素材であり、それを知識にするためには、学習者自らが環境のリソースとともに関連づけ、構造化をせねばならないのだ。これを2章に書いた。
以上のように人は教育者の思うままにはならない、そうしたことから次第で21世紀に入る頃から創発というキーワードにすごく接近するようになった。どういう理屈かを説明する。創発というのは、意図の不在と還元不能性にある。自然現象のほとんどは創発だ。原子の結合により分子が出来上がることで、その分子は原子の性質とは全く異なる性質を帯びることになる。またどの原子も新しい性質を作りたいと思っていない。これは当たり前だ。なぜならモノだから意図は持ち得ないからだ。
21世紀に入る頃にわかったことは、認知の変化というのもそういうことなのではないかということだ。教師が何かを教えようとする、そしてそれが学習者によって学ばれた、そういうのは創発ではなく、計画に基づくものだ。だから教育を創発と捉えるのは変だと思うかもしれない。
しかし前にも述べたように人は教師の思うようには学習はまずしない。また結果だけ見れば、教師の思うように学習したように見えるかもしれないが、その過程で起きていることは教師の想定とは異なるものであることがほとんどだと思う。だから結果だけ見れば教育は成功した、自分の教育計画はうまくいったと思えるかもしれないが、それは上っ面の話だ。
そういうことに気づいたのが21世紀辺りで、そこで創発に一挙にのめることになる。そこで「ダイナミカル宣言」というのを勝手に唱えた。そういう観点で見ると、ほとんどの認知的変化は創発なのだということに気づくことになった。この頃は楽しくて楽しくて、バリバリと研究を拡大していった。機械音痴、手作業の熟達などはわかりやすい例だと思う。微視的な分析を通して、創発のダイナミクスを(数式ではないのだが)明らかにしたという自負がある。今回の書籍の3章は、練習に基づく上達がべき乗則だけでは捉えきれない、非常に複雑な成分を含んでいることを述べた。
創発の条件はそこに関わる要素が多数存在していること、それらが外部の環境と相互作用を行うこととなる。これまで文脈依存性などを通して、同じタイプの課題に複数のリソースが存在していることは私にとっては自明なことだった。こうしたアプローチをさらに展開したのがmicrogenetic approachである。主に発達心理学の人たち(GranottとかSieglerなど)が、単に複数のリソースがあるというだけでなく、その複数のリソースの揺らぎが次の発達へと導くことをさまざまな形で明らかにした。これは大学院のゼミで1年間しっかりと読んだ。これらのアプローチとそれまでの文脈依存性を組み合わせたのが4章となる。
さらに意図の不在ということがあるとすれば、認知的変化は無意識によって導かれていることに気づき、無意識というとても難しいテーマに挑むことになった。幸いなことにコクヨ株式会社からの資金の援助を受けて、随分と面白い話を展開することができた。この過程での大発見は、洞察という突然のように思える認知的変化は無意識の働きによるという研究群だ。この分野の同業者はもちろん何人もいるのだが、私は躊躇うことなく自分達のグループの研究が最高だと思っている。これについては今回の新書の5章にまとめた。
人の認知的変化についてこうした研究をしてきた人間から見ると、なんとか教育、なんとかラーニングなどと軽く口走る人たちは・・・・(品がない言葉になるので省略)と思う。認知的変化ということについてinput、outputレベルの測定以外したことないような人たちの言説だと思う。こういう人たちが拠って立つ基盤が学校教育モデル、さらには工場モデルであるということに数年前に気づいた。それがどれほど馬鹿げたものかをしるしたのが6章となる。対案として生田久美子の著書、我が師の佐伯胖の論考を交えた学習論を提示した。
そんなようなことでこの本は私の経歴書みたいなものになっている。私ごとき人間の経歴書など誰も買わないと思うが、真面目な学術書として書いた。なので関連する分野の方にはぜひお読みいただきたいと思う。特に文科省とそこに集う学者たちの提言に辟易としている大学関係者の方にはおすすめのような気がする。