生田・北村(編)「わざ言語」(慶応大学出版会)を、大学院のゼミで読んでいる.研究室のゼミ生6人とその他いろいろな人が来て,毎回白熱した議論が続いている.こういうゼミの光景はもう長らく見たことがない.大変に素敵な時間だ.
この本はプロのわざに関心を持つ教育哲学,スポーツ科学,看護学などの様々な分野の研究者が,歌舞伎,和太鼓,スポーツ(陸上,スケート),看護など分野の本当のプロとして活躍し,指導をしている人たちのインタビューをベースにしながら,わざ,熟達,指導とは何かを論じるものである.そもそも生田久美子さんは以前の記事にも書いたように,わざについての卓越した著書を20年以上前に書かれている.今回の本では,同志と一緒にこの路線をさらに洗練,拡大させたものと言えよう.またこういう本当のプロの世界というのはそもそも一般の研究者には手の出せない領域であり,そういうところに大胆に踏み込んでいったという意味でも,すばらしい試みであると思う.
さてその上でどうもいろいろとこの本には気になることがあるので書き留めておく.この本の素敵なところであるが,本当のプロのインタビューが掲載されている.各章の著者はこれらを随時参照し,自らのこれまでの研究と組み合わせて論を展開している.ただこの参照がずいぶんと乱暴な気がする.前に書いたように,このプロたちの分野や指導の対象となる人たちはずいぶんと異なっている.本当にその世界でプロとして生きていく人,そうでもない人,元々非常に高い水準の力量を持った人,初心者など,様々である.またそれぞれの専門で身体の使い方,気持ちの持ち方など、いろいろな違いがある.よって,各プロの熟達や指導についての考え方には共通項もあるが,差異も大きい.こういう多様なわざの(指導の)世界から,わざとその指導についての一般論を作り出すのは現段階ではちょっと無謀なのではないかと思う.
わざ,熟達と言語の関係は大変におもしろい問題だ.言語的記述や言語を介する指導はあまり熟達にネガティブな影響を与えるという報告がいくつかある.その一方,一流の選手や芸術家たちは丹念な創作ノート,練習ノートをつけている場合も少なくない.またうまい言葉を用いた指導により,弟子が飛躍的上達するという可能性も指摘されている.こうしたわざの熟達過程における言語の使用に関して矛盾した2つの見解を統合していくのが「わざ言語」という概念であるはずだ.実際,この本でも様々なわざ言語が紹介されている.しかし,わざ言語と言っても,そこでの言語のあり方が問題となるのだが,これについての十分な論考が行われているとは言えない.特にリテラルな記述的言語と比喩的言語との違いはもう少しページを使って論じてほしい.この問題については、生田さんの前の著書の方がより詳しく論じていたように思う.
そういう意味でわざ言語がどんな特徴を持つのか,それらを分野や弟子の熟達段階とともに記述したりするととてもおもしろいと思うのだが(難しいのででしょうね).なんだか、blogの調子がおかしいので、まず一度ここで公開しておくことにする.