002年1月30日の朝日新聞朝刊にオウムのトップに就任した上祐史浩に対するインタビュー記事が載っていました。この中で記者が「今でも麻原を崇拝しているそうだが」という質問をしました。これを受けて、上祐は「彼は精神的な父親のような存在である。父親が大罪を犯したら家族も一緒に謝罪するが、父親への気持ちは消えはしない。父親との絶縁は不可能だ」と述べました。これは前に述べた四項類推の枠組で言えば、
家族:父親=信者(オウム信徒):教祖(麻原)
というものです。
結論は受け入れ難いのですが、これはなかなかうまい類推です。さすが
- 口達者(「ああ言えば上祐(こういう)」と呼ばれるくらい(奇妙な)弁の立つ人でした)、
- 元人工知能研究者(彼は早稲田の大学院で人工知能の研究をしていました)。
類推の恐いところは、こういうところですよね。
類推研究では、構造、意味、目的が、ベース(この場合は上の式の左辺)とターゲット(同、右辺)が一致していること、あるいは十分に似ていることが重要とされています。上の類推は基本的にこれらのすべてを満たしています。またこの類推の核は、教祖=父親という部分にありますが、これの背後にはきわめて日常的な、我々の慣れ親しんだ同一化(抽象化)が存在しています。キリスト教では聖職者のことをファーザーと呼ぶ宗派が存在しますし、戦前の日本では天皇陛下は国民(臣民)の父親とされていました。
これへの反論はいかにして可能でしょうか。思いつくまま以下に可能性を挙げてみます。
- 父親が大罪を犯したら、(布教活動などの)公的な活動をふつうの家族は行なうか、 という反論が考えられます。しかしこれは多分駄目ですね。「じゃあ、犯罪者の家族は一生日陰者として暮らせと言うのか」と言われると、終りです。
- 「犯罪の程度が違うだろう」というのも思いつきます。ふつうの人間の犯罪と麻原がやったことは、同一視できないと言うわけです。でも、これもだめですね。類推では、程度の差は本質的ではないからです。たとえば、有名な太陽系と原子の構造の類推でも、その構成要素の大きさなどは全く無視されます。ですから、この反論は類推自体を否定することはできません。
- 切れないことは認めるが、問題は「何の気持ちが消えないのか」ということだと思います。家族が父親への気持ちや縁を切れないとしても、それは父親の犯罪的部分へではないはずです。これを明確にしないと、健全な類推とは言えない。実際、オウムの教えには反社会的で、地下鉄、松本サリン事件に直結するような部分があります。謝罪の内容と、信じる部分との間の整合性(構造的一貫性)がどの程度あるかが問題となるでしょう。しかし、実際には上祐は「悪いところは捨てる」と言っています。「じゃあ、それをはっきりさせよ」と迫ることもできますが、また彼は「できる限りオープンにしている」とも言っています。うーーん、困りましたね。
- もう一つの反論の可能性としては「単一の類推」であり、他の可能性を考慮しない、ということも考えられます。たとえば、宗教=国家、教祖=元首、という類推を考えることもできましょう。たとえば、ナチスドイツ(=麻原時代のオウム)とその後のドイツ政府(現在のオウム)をベースとすれば、出てくる結論は全く変わってくると思います。アナロジーの力という本を以前に訳しましたが、そこに書かれている大事なことの一つは、単一の類推はえてして妥当な結論をもたらさない、ということです。妥当な結論を導き出すためには、複数の類推を行ない、その結論の妥当性を類推以外の方法でチェックする必要があります。
3にしても4にしても類推だけではやっぱりケリはつかないと言うことですね。事実のチェックや整合性のチェックを行なわない限り、妥当な推論は導き出せないと言うことです。