ロボット研究から「個性」を考える

この間、とあるシンポジウムを聞きにいった時に気になる言葉がありました。それは「個性」です。そのシンポジウムの発表者の一人はロボットに集団で芸をさせるという発表をしていました。そこで全く同じように作ったロボットでもハードウェア(モータ、センサ等)のちょっとした違いによって、動きに差が出てしまう、そしてそうした差が個性のように見えるというような話をしていました。確かにみんなよりも少し早めに動くロボットを見ると「せっかち」、よく外れた動きをしてしまうのを見ると「とろい」などという性格を付与したくなります。

こうした人間の擬人化傾向はかなり強力であり、どうも人間は自律的に運動するようなもの、自律的な反応をするようなものに対しては、主体性を付与してしまうようです。これをもっともはっきりと示したのはリーブス・ナースによる「メディア・イクエーション(Media Equation)」という本でしょう。これには、人間が無意識のうちにメディアに対して擬人化を行なうことが、数多くの実験から明らかにされています。大変に面白い本なので、ぜひ読んでみることを勧めます。

「個性」の話に戻ります。そのシンポジウムにおける重要な示唆は「「個性」と「社会性」、「文脈」の関係です。もし他のロボットよりも若干遅れるロボットがいたとしても、もしそれが単独で存在していたらそれが遅れること、つまり「のろま」であることは、問題になりません。というか、そもそもそうした個性は見えません。ここから分かることは、「個性」は、他者あるいは社会の存在を前提としているということです。もっというと、他者との比較、所属集団の平均との比較において個性が存在しているということです。

これはある意味では常識でしょう。他にもそうしたことを述べている人はたくさんいると思います(代表選手としては、私のあこがれの岸田秀。またたぶん、臨床心理学の多くの理論もこうしたことを前提としていると思います)。一方、人は性格テストに夢中になったり、研究者は性格特性を捉えようと意味のないテストを作ったり、あるいは「自分探し」、「本当の自分」などという言葉が無反省に用いられたりしています。こうした人たちは、何か個性あるいは自己と呼べるようなものが、社会や状況と無関係に「私の中」に存在していることを前提としているように思われます。

どういう文脈で使われているのかよく分からないけど、「自分探し」って言葉は気持ち悪いよね。こうした言葉が広まると、なんか確固とした「自分」というのが存在するような錯覚にとらわれる。ふだんそんなことは考えたこともないから、無理矢理考えると結局それは自分の理想、空想にしかならなくなる。理想は定義上、現実ではないので、現実に不満を抱き、「こんなの自分じゃない」などと考えはじめる。実は本当の自分というのは、今ここにいる自分のことで、それ以外は空想に過ぎないのに、その空想を実現しようという気になる。無論、空想は実現不可能だから、どうやっても到達しない。また万が一、到達した場合はそれは定義上理想ではなくなるので、また別の空想を作り出す。こういう悪循環が心の病を生み出すんじゃないかな。

また話が脱線しました。さてもう一度「個性」に戻ります。そのシンポジウムを聞いていて、疑問に思ったのは「モータの回転がちょっと遅い」、「センサがちょっと敏感」というのは個性かなっていうことです。近視は個性でしょうか、人より足が速いのは個性でしょうか?どうもそういう使い方はしないのではないかと思います(こうした場合は「個体差」などというのではないでしょうか)。

そこで提案。個性というのは、


個体差の認識、あるいはその認識に基づく行動のパターン

ではないか。

人は集団生活の中で、他者との違い(個体差)に気づく。その違いゆえに、ある状況において利益を得たり、不利益を被ったりするようになる。そうした事態に接して人は特定の感情を持ったり、あるいはそれにうまく対処するために特定の行動を行なうようになる、これが個性なんじゃないか、と思うわけです。たとえば、足が遅いので運動会の時になると、ドキドキして、弱々しくなる。もう少し屈折したものとしては、仕事が遅いので、みなと同じに始めると遅れが出てしまうので、人の話もそっちのけで仕事を始めてしまう、「そそっかしい人」。さらに屈折したのとしては、議論をするとついていけないので、会議に最後のまとめ(論争を避け、議論をうやむやにする)の発言などだけを行なう「思慮深い人」、「バランスのとれた人」。

こうした二次的な心の働きが個性を生み出すと思います。よって、単なる個体差だけでは個性とはいえず、その認識、その積極的利用、修正、ごまかしなどが入ってくると、ロボットも人間のように豊かな個性を持つのではないでしょうか。

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